目次
中巻 1 聖徳太子(5)
校訂本文
また、太子1)、小野妹子(おののいもこ)を使として、前(さき)の身に唐土(もろこし)の衡山(かうざん)にありて持(たも)てりし経を取りにつかはす。教へて宣はく、「赤県の南に衡山と云ふ山あり。山の中に般若寺あり。わが昔の同法(どうぼふ)はみな死にけむ。ただ三人ぞあらむ。わが使(つかひ)と名乗りて、そこに住みし時持(たも)ち奉りし法華経の合はせて一巻にせるいます。乞ひて持て来たれ」と宣ふ。
妹子、仰せのごとくに渡りて教へに従ひて至りぬ。門(かど)に一人の沙弥(しやみ)ありて、ずなはち見て入りて云はく、「念禅師(ねんぜんじ)2)の使来たれり」と告げければ、老僧三人(みたり)杖をつきて出で会ひて、喜び笑みて、使に教へて経を取らしむ。すなはち帰りて持ちて来たれり。
太子、斑鳩(いかるが)の宮の寝殿のかたはらに屋を造れり。夢殿(ゆめどの)と名付く。一月に三度(みたび)沐浴して入る。明くる朝に出で給ひては、閻浮提(えんぶだい)のことを語る。また、この内に入りて、諸(もろもろ)の経疏を作り給ふ。
ある度(たび)は七日七夜出で給はずして、戸を閉ぢて音(おと)もし給はず。高麗(かうらい)の恵師(ゑじ)法師の云はく、「太子、三昧定(さんまいぢやう)に入り給へり。おどろかし奉ることなかれ」と云ふ。
八日といふに出で給へり。玉の机の上に一巻の経あり。恵師法師を召して語らひ給はく、「われ前(さき)の身に衡山にありし時持(たも)てりし実(まこと)の経はこれなり。去りにし時、妹子が持て来たれりし経は、わが弟子の経なり。三人(みたり)の老僧の、収めたる所を知らずして、異経(こときやう)を取りて送りしかば、われ魂をやりて取らせるなり」との宣ふ。去年(こぞ)の経と見合はするに、かれには無き字一つあり。この度の経も一巻に書けり。黄紙に玉の軸を入れたり。
また、百済国より僧道欣(だうごん)等十人来たりて仕(つかふまつ)る。「前の世にして衡山にて法華経を説き給ひし時、われらは盧岳(ろがく)の道士として、時々参りて聞きし人々なり」と申す。
後の年に、小野妹子、また唐土(もろこし)に渡りて、衡山に行きたれば、前(さき)の僧一人残りき。語らひて云はく、「去る年に秋、なんぢが国の太子、もとはこの山の思禅師3)、青竜の車に乗りて、五百の人を身に従へて、東より空を踏みて来たて、旧き室の中にさしはさみ置ける一巻の経を取りて、雲を凌(しの)ぎて帰り去りにき」と言ふ。ここに明きらかに知りぬ。この夢殿に入り給へりし折のことなりと。
翻刻
シ花イマニ此寺ニアリ又太子小野妹子ヲ使トシテサキ ノ身ニモロコシノ衡山ニアリテタモテリシ経ヲトリニツカ ハスヲシヘテノ給ハク赤県乃南ニ衡山ト云山アリ山ノ中ニ 般若寺アリ我昔ノ同法ハミナシニケム只三人ソアラム 我使トナ乃リ天ソコニスミシトキタモチタテマツリシ法花経ノ アハセテ一巻ニセルイマスコヒテモテキタレトノ給妹子仰 乃コトクニワタリテヲシヘニシタカヒテイタリヌ門ニ一人ノ沙弥/n2-14l・e2-11l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/14
アリテ即見テ入テ云ネム禅師(思禅法師或)ノ使キタレリト告ケレハ 老僧三人杖ヲツキテイテアヒテ喜ヒヱミテ使ニヲシヘテ 経ヲトラシム即カヘリテモチテキタレリ太子斑鳩ノ宮乃 寝殿ノカタハラニ屋ヲツクレリ夢殿トナツク一月ニ三度 沐浴シテイルアクル朝ニイテ給テハ閻浮提ノ事ヲカタル 又此内ニ入テ諸ノ経疏ヲツクリ給或度ハ七日七夜出 給ハスシテ戸ヲトチテオトモシ給ハス高麗ノ恵師法師 ノ云太子三昧定ニ入給ヘリオトロカシタテマツルコトナカレ/n2-15r・e2-12r
ト云八日トイフニイテ給ヘリ玉ノ机ノ上ニ一巻ノ経アリ 恵師法師ヲメシテカタラヒ給ハク我サキノ身ニ衡山ニアリシ 時タモテリシ実ノ経ハ是也サリニシ時妹子カモテキタレ リシ経ハ我弟子ノ経也三人ノ老僧ノヲサメタル所ヲシラス シテコト経ヲトリテヲクリシカハ我タマシヒヲヤリテトラセル也 トノ給コソノ経ト見合スルニカレニハナキ字一アリ此度ノ 経モ一巻ニかけり黄紙ニ玉ノ軸ヲイレタリ又百済国ヨリ 僧道欣等十人来テツカフマツル前世ニシテ衡山ニテ法花経/n2-15l・e2-12l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/15
ヲ説給シ時我等ハ盧岳ノ道士トシテ時々マイリテ聞シ 人々也ト申ス後ノ年ニ小野妹子又モロコシニワタリテ衡 山ニユキタレハサキノ僧ヒトリ乃コリキカタラヒテ云去ル年ニ 秋汝カクニノ太子本ハ此山ノ思禅師青龍ノ車ニ乗テ 五百ノ人ヲ身ニシタカヘテ東ヨリ空ヲ踏テキタテ旧キ室 ノ中ニサシハサミヲケル一巻ノ経ヲトリテ雲ヲシノキテ 帰去ニキトイフココニアキラカニシリヌ此夢殿ニ入給ヘリ シオリノ事也ト太子ノ御妻(妃)カシハテノ氏(膳氏イ)カタハラニ/n2-16r・e2-13r