目次
中巻 1 聖徳太子(3)
校訂本文
太子1)の御父、用明天皇位につき給ひぬ。二年ありて仏法いよいよ広まり興りき。王の仰せに云はく、「いまはひとへに三宝に帰依せむと思ふ」。蘇我大臣(そがのおほおみ)2)、勅(しよく)をうけ給ひて、法師を召して内裏に入れつ。太子、悦びて大臣の手を取りて、涙をたれて宣はく、「三宝の妙(たへ)なることを、人いまだ知らぬに、大臣心を寄せたり。うれしくもあるかな」と宣ふ。
これより後に、ある人ひそかに守屋大連(もりやのおほむらじ)3)に告げて云はく、「人々謀(はかりごと)をなすめり。兵をまうけよ」と。これを聞きて、阿都(あと)の家に籠りゐて兵士(つはもの)を集めまうく。中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)、武者(つはもの)をおこして、守屋大連をあひ助けむとす。また、天皇を呪咀し奉らむといふ聞こえあり。
蘇我大臣、太子に啓して軍(いくさ)を率(ひき)ゐて、守屋の大臣のもとによる4)。守屋、兵をおこして楯をついて防ぎ戦ふ。その軍(いくさ)すでにこはくして、御方(みかた)の軍、恐惶(おぢをののき)て、三度(みたび)帰り退く。
この時に、太子、御歳十六才なり。将軍の後(しりへ)に立ち給へり。軍の政(まつりごと)の人、秦川勝(はたのかはかつ)に示して宣はく、「ぬるでの木を取りて、四天王の像を刻み造りて、おのおの髻の上に挟み、桙(ほこ)の先に捧げて、願ひて云はく、『われらをして軍に勝たしめ給ひたらば、四天王の像をあらはして堂塔を建てむ』」と。蘇我大臣、またかくのごとく願(ぐわん)して、軍を集めて進み戦ふに、物部守屋大連、大きなる榎(えのき)に登りて、物部氏の大神を誓ひて矢を放つに、太子の御鐙(あぶみ)に当たれり。
太子、また舎人(とねり)迹見赤檮(とみのいちひ)5)に仰せて、四天王を祈りて矢を放たしむ。遠く大連が胸に当たりて、木より落ちぬ。
その軍敗れぬ。攻め行きて、守屋が首(かうべ)を切りつ。鉾に刺して、家の内の宝物(たからもの)、荘園6)をば、みな寺の物となしつ。玉造(たまつくり)の岸の上に、はじめて四天王寺を建つ。これより仏法盛りとなりぬ。
翻刻
モトメアラタメテコレヨリハシメテ又オコシサカヘシメ給太子ノ 御父用明天皇位ニツキ給ヌ二年アリテ仏法イヨイヨヒロマリ オコリキ王ノ仰ニ云イマハヒトヘニ三宝ニ帰依セムトヲモフ 蘇我大臣勅ヲウケ給テ法師ヲメシテ内裏ニイレツ太子 悦テ大臣ノ手ヲ取テ涙ヲタレテ乃給ハク三宝ノタヘナル 事ヲ人イマタシラヌニ大臣心ヲヨセタリウレシクモアルカナト 乃給コレヨリ後ニ或人ヒソカニ守屋大連ニ告テ云ク人々 ハカリコトヲナスメリ兵ヲマウケヨトコレヲキキテ阿都(アト)ノ家ニ/n2-12r・e2-9r
籠居テ兵士ヲアツメマウク中臣ノ勝海ノ連武者ヲヲコシ天 守屋ノ大連ヲアヒタスケムトス又天皇ヲ呪咀シタテマツラム トイフキコヘアリ蘇我大臣太子ニ啓シテイクサヲヒキヰテ 守屋ノ大臣ノモトニヨル守屋兵ヲオコシテタテヲツイテフセ キタタカフソノ軍已ニコハクシテ御方ノイクサ恐惶(ヲチヲノノキ)テ三度 カヘリ退ク此時ニ太子御歳十六才也将軍ノ後ニ立給ヘリ 軍ノマツリコトノ人秦川勝ニシメシテ乃給ハクヌルテノ木ヲ トリテ四天王ノ像ヲキサミ造テ各髻ノウヘニハサミ桙ノサキニ/n2-12l・e2-9l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145963/1/12
ササケテ願テ云我等ヲシテ軍ニカタシメ給タラハ四天王ノ像 ヲアラハシテ堂塔ヲタテムト蘇我大臣又カクノコトク 願シテ軍ヲアツメテススミタタカフニ物部守屋大連大ナル 榎ニノホリテ物部氏ノ大神ヲチカヒテヤヲハナツニ太子 ノ御アフミニアタレリ太子又舎人遠(迹)見ノ赤檮(槫或)ニ仰テ 四天王ヲイノリテ矢ヲハナタシム遠ク大連カ胸ニアタリ テ木ヨリヲチヌソノイクサヤフレヌセメユキテ守屋カ首 ヲキリツ鉾ニサシテ家ノ内ノタカラ物庄薗ヲハ皆寺ノ/n2-13r・e2-10r
物トナシツ玉造ノ岸ノウヘニハシメテ四天王寺ヲタツコレヨリ 仏法サカリトナリヌ太子ノ御舅崇峻天王位ニツキ給ヌ/n2-13l・e2-10l