目次
上巻 13 施无(4)
校訂本文
この時に、帝釈(たいしやく)1)の座、たちまちに損じ、諸天宮みな動く。すなはち天眼(てんげん)をもつて遥にこのことを見る。祖(おや)の子を恋ふる悲しびの聞き、子の祖に孝せし誠の心を悲しびて、上梵王(じやうぼむわう)共に来たり、天神地祇(てんじんちぎ)騒ぎ集まり、帝釈形を顕(あら)はして、祖に語らふ。「これ、誠の孝子なり。われ必ず助け生けむ」と云ひて、天の薬をもつて施无が口に灑(そそ)く。その箭たちまちに抽(ぬ)けて、その命すなはち生きぬ。父母、驚き見るに、二つの目みなあきぬ。鳥獣飛び走りて、その音(こゑ)喜び楽しぶ。風止み雲晴れて、日明らかに花鮮かなり。
国王、大きに驚き喜びて帝釈を拝み、また父母及び子を拝みて宣はく、「われ国の財を尽してみなともに与へむ2)。われまた永く留まりて、朝夕(あしたゆふべ)にまた助け養はむ。施无、申して云はく、「もし恩を報はむとおぼせば、早く国に返り給ひて、人を憐れび給ひて、みな勧めて戒を持たしめ給へ。王また狩し給ふことなかれ。この世にも命やすからず、後の世にも地獄に入る。昔、王、一切の功徳を作りて、今、国の位を得給へり。心に任せて愚かにはかなく、ほしいままに罪を作り給ふことなかれ」と申す。国王、大きに悔い給ひて、「今より後には、なんぢが教へのごとくにあらむ」と宣ふ。王の共の若干(そこばく)の人、天(てん)の下りて薬を灑(そそ)くに、子の命すなはち生き、祖の眼のみなあきぬるを見て、みな大きに奇(あや)しび貴びて、永く後生(ごしやう)を貴びて、「命を限りて破らじ」と念(おも)ひぬ。
王、国に返りて、あまねく告げて宣はく、「諸(もろもろ)の目盲(めしひ)たる父母ありて、施无がごとくにあらむ類(たぐひ)は、みなまさに助け養ふべし。もし、悩まし犯す輩(ともがら)あるをば、重き罪に当てむ」と宣ふ。国の内の諸の民、施无がごとくに心を発(おこ)して、上下(かみしも)あひ教へつつ、五戒を持(たも)ち、十善を行ひ、死ぬればみな天に生まれて、三悪道(さむあくだう)に入るものなかりき。
翻刻
爰ニ命ヲ了ヘテ同シク共ニ鹿ニ成ラムト叫ケヒ呼フ此ノ時ニ 帝尺座忽ニ損シ諸天宮皆動ク即チ天眼ヲ以テ遥ニ 此ノ事ヲ見ル祖ノ子ヲ恋フル悲ヒノ聞キ子ノ祖ニ孝セシ誠ノ 心ヲ悲テ上梵王共ニ来リ天神地祇騒キ集リ帝尺形ヲ 顕シテ祖ニ語フ是レ誠ノ孝子也吾レ必ス助ケ生ケムト云ヒテ 天ノ薬ヲ以テ施无カ口ニ灑ク其ノ箭忽ニ抽テ其ノ命則 生キヌ父母驚キ見ルニ二ツノ目皆あきヌ鳥獣飛ヒ走テ 其音喜ヒ楽シフ風止ミ雲晴レテ日明ラカニ花鮮也国王大ニ 驚キ喜テ帝尺ヲ拝ミ又父母及ヒ子ヲ拝テ宣給ハク吾/n1-50r・e1-47r
国ノ財ヲ尽シテ皆共ニ与ヘ□吾又永ク留テ朝タ夕ニ又 助ケ養ハム施无申シテ云ク若シ恩ヲ報ムト於保セハ早ク 国ニ返リ給テ人ヲ憐ヒ給テ皆勧メテ戒ヲ令持給ヘ 王又狩シ給フ事莫レ此ノ世ニモ命不安ス後ノ世ニモ 地獄ニ入ル昔王一切ノ功徳ヲ作テ今国ノ位ヲ得給ヘリ 心ニ任セテ愚カニ頑ハカナク恣ニ罪ヲ作リ給フ事莫ト申ス 国王大キニ悔イ給ヒテ自今リ後ニハ汝カ如教ニ有ラムト 宣給フ王ノ共ノ若干ノ人天ノ下リテ薬ヲ灑ニ子ノ/n1-50l・e1-47l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/50
命即生キ祖ノ眼ノ皆安木ヌルヲ見テ皆大キニ奇ヒ貴 テ永ク後生ヲ貴テ命ヲ限テ不破シト念ヒヌ王国ニ 返テ普ク告テ宣給ハク諸ノ目盲ヒタル父母有テ施无カ 如クニ有ラム類ヒハ皆当ニ可助養シ若シ悩シ犯ス輩有 ヲハ重キ罪ニ当テムト宣給フ国ノ内ノ諸ノ民ミ施无カ 如クニ心ヲ発シテ上ミ下モ相ヒ教ツツ五戒ヲ持チ十 善ヲ行ヒ死ヌレハ皆天ニ生テ三悪道ニ入ル物無カリキ 仏阿難ニ告ケ給ハク昔ノ施无ト云シハ吾カ身是也/n1-51r・e1-48r