目次
上巻 13 施无(2)
校訂本文
時に祖(おや)、水を楽(ねが)ひて乞ふ。谷に行きてこれを汲めば、鹿の皮の衣を着て、瓶を持ちてかがまりて汲むに、鹿(しし)集まりて水を飲むにあひ交りて、形同じ。時に国王、山に狩りをして、鹿を見てすなはち射るに、誤りて施无が胸に当たりぬ。
倒れ呼(さけ)びて云ふ、「誰れの人の、一つの箭(や)をもつて、三人の人を殺すぞ。象は牙を取らむがために殺さる。犀(さい)は角を切るによりて死ぬ。われは取る所もなし。何によりて殺されぬるぞ」と云へば、国王、声を聞きて、「人なりけり」と驚きて、馬より下りて近く寄りぬ。「なんぢは何人ぞ。その形、鹿(しし)に同じかりつれば1)、誤りて箭を放ちつるなり」と宣(のたま)ふ。答へて申さく、「われは老いたる祖(おや)をもちて、この山に居て養ふ人なり」と云ふ。王、聞きて涙を落す。供の人、みな泣きぬ。この時に、大きなる風たちまちに起こりて、木の枝を吹き折り、よろづの鳥悲しび鳴きて、獣馳(はし)り呼(さけ)ぶ。日暗がり天の光なし。電(いかづち)鳴り地を動かす。
王、いよいよ怖り思ひて宣(のたま)はく、「われ誤りて孝子(けうし)を殺しつ。この罪はなはだ重し。悲しきかな、少しの味(あじはひ)を求めむがために、重き罪を受けむとすること。いかにしてか、なんぢを生けむ」と泣く。手づから箭を抜き給ひぬ。深く入りて出でず。
施无が申さく、これは王の御咎(おほんとが)にもあらず。ただわが昔の罪によりてなり。みづからの身をば惜まず。ただ父母が命を悲しぶ。わが祖(おや)年老いて、みな共に目盲(めしひ)たり。一日もわれなくは、残りの命を失ふべし」と云へば、王いよいよ悲しび泣きて宣ふ、「なんぢつひに生かずは、われさらに還らじ。永くこの山に留りて、なんぢに替はりて祖(おや)を養はむ。諸(もろもろ)の天・龍神、このことを聞け。われされに誤らじ」と宣へば、施无聞きて、喜び貴くすること限りなし。「王、まことに祖(おや)を養はば、われは死すとも歎くことあらじ」。
王、泣きて問ひ給ふ。「なんぢ、いまだ死なぬ時に、祖のある所を知らしめよ」と宣へば、答へて申さく、「この細き道を行き給はば、ここを去れること遠からずして、小さき草の菴(いほ)あり。その中にあり。やうやく歩みて静かに行き給へ。たちまちに祖の心を驚かし給はざれ。よく計り語らひ誘(こしら)へて、たいまちに祖の神(たましひ)を迷(まど)はし給はざれ。また、必ずわが父母に伝へ語らひ給へ。『人の寿(いのち)は常ばければ、われここにして永く別れぬ。今はまた誰をか憑(たの)み、いかでか残りの年をば送り給はむとする。ただし、このことを念(おも)ふになむ、死ぬる神(たましひ)も安からぬ。死にはこれ終(つひ)の道なり。誰もみな免れず。ゆめゆめ丁寧(ねむごろ)に云ひ悲しびて、空しく心を悩まし給ふことなかれ。願はくは後の世々(せぜ)にも、子友(こども)にあひて、永く忘れ離れ奉らじ』となむ云ひて死ぬると、告げ知らしめ給へ」と云ひて死ぬ。王も諸(もろもろ)の人も、これを聞くに涙を流し、音(こゑ)を挙げて共に泣く。
翻刻
多ク積リ深ク慈ノ心ノ有ルニ鳥獣皆馴レ感シ泣ク于時ニ 祖水ヲ楽テ乞フ谷ニ行テ此レヲ汲ハ鹿ノ皮ノ衣ヲ着テ瓶 ヲ持テ加々末利天汲ムニ鹿シシ集テ水ヲ飲ムニ相ヒ交テ 形同シ時ニ国王山ニ狩ヲ為テ鹿シシヲ見テ即チ射ルニ誤テ 施无カ胸ニ当リヌ倒レ呼テ云フ誰レノ人ノ一ツノ箭ヲ/n1-46r・e1-43r
以テ三人ノ人ヲ殺スソ象ハ牙ヲ取ラムカ為ニ被殺ル犀ハ 角ヲ切ルニ依テ死ヌ我ハ取ル所モ無シ何ニ依テ被殺ヌルソト 云ヘハ国王声ヲ聞テ人ナリケリト驚テ馬ヨリ下テ近ク寄ヌ 汝ハ何人ソ其ノ形チ鹿シニ同シ借リツレハ誤テ箭ヲ放チツル 也ト宣給フ答テ申サク我ハ老タル祖ヲ以テ此ノ山ニ居テ 養フ人也ト云フ王聞テ涙ヲ落ス共ノ人皆泣ヌ是ノ時ニ 大ナル風忽ニ起テ木ノ枝ヲ吹折リ万ツノ鳥悲ヒ鳴テ獣 馳リ呼フ日暗カリ天ノ光無シ電チ鳴リ地ヲ動カス 王弥ヨ怖リ思テ宣ハク我レ誤テ孝子ヲ殺ツ是ノ罪/n1-46l・e1-43l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/46
甚重シ悲哉少ノ味ヲ求カ為ニ重キ罪ヲ受ムト為ル 事ト何シテカ汝ヲ生ケムト泣ク手ツカラ箭ヲ抜キ給ヌ深ク入テ 不出ス施无カ申サク是レハ王ノ御咎ニモ非ス只我カ昔 ノ罪ニ依テ也自ノ身ヲハ不惜ス只父母カ命ヲ悲フ我カ 祖年老テ皆共ニ目盲シヒタリ一日モ我レ無クハ残ノ命ヲ 可失シト云ハ王弥ヨ悲ヒ泣テ宣給フ汝終ニ不生ハ我 更ニ不還ラシ永ク此山ニ留テ汝ニ替テ祖ヲ養ハム諸ノ 天龍神此ノ事ヲ聞ケ我レ更ニ不誤シト宣給ヘハ施无 聞テ喜ヒ貴スル事無限シ王実トニ祖ヲ養ハ我レハ/n1-47r・e1-44r
死ストモ歎ク事不有ラシ王泣テ問給フ汝未死ヌ時ニ祖ノ 有ル所ヲ令知ヨト宣給ヘハ答テ申サク此ノ細キ道ヲ行キ 給ハハ爰ヲ去レル事不遠シテ小サキ草ノ菴有リ其中ニ 有漸ク歩テ静カニ行キ給忽ニ祖ノ心ヲ驚カシ給サレ能ク 計リ語ヒ誘ヘテ忽ニ祖ノ神ヒヲ迷ハシ給ハサレ又必ス我カ 父母ニ伝ヘ語ヒ給ヘ人寿ハ常無ケレハ我レ爰ニシテ永ク別レヌ 今ハ又誰ヲカ憑ミ何テカ残リノ年ヲハ送リ給ハムト為ル但 此事ヲ念フニナム死ヌル神ヒモ不安ラヌ死ニハ是レ終ヒノ道也 誰モ皆不免レス努々メ丁寧ニ云ヒ悲ヒテ空シク心ヲ/n1-47l・e1-44l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/47
悩マシ給フ事無カレ願クハ後ノ世々ニモ子友ニ相テ永ク 忘レ離レ不奉シトナム云ヒテ死ヌルト告ゲ令知メ給ト云ヒテ 死ヌ王モ諸ノ人モ是ヲ聞ニ涙ヲ流シ音ヲ挙テ共ニ 泣ク教ツル道ヨリ尋ネ行テ菴ホノ許ニ至リヌ目盲ヒタル二/n1-48r・e1-45r