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text:sanboe:ka_sanboe1-12c

三宝絵詞

上巻 12 須大拏太子(3)

校訂本文

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その時に鳩留国(くるこく)と云ふ遠き国に、老い衰へ貧しき翁あり。髪白く、面(おもて)黒く、目ただれ、口ゆがめり。その形、鬼のごとし。若き妻(め)ありて。責て云はく、「われ、みづから水を汲むに、見る人悪(にく)み笑ふ。なんぢ、仕(つか)ひ人を求めずは、われここにあらじ」と云へば、翁の云はく、「われ貧し。誰か仕はれむ」と云ふ。妻また云はく、「須太那太子は深き山に追はれにたなり。二人の子あらむ。行きて乞はば、必ず得てむ」と勧むれば、翁、太子のもとに杖に係りて尋ね来たれり。

この時に、太子の妻は菓(このみ)拾ひに出で去りたり。二人の子、翁を恐れて、逃げて隠れぬ。翁の云はく、「遠くよりなづみ歩みつるに、身挙(こぞ)りてひるみ痛し。また大きに飢ゑ羸(つか)れにたり」と云ふ。太子、憐れびて、湯を飲ましめ、菓(このみ)を食はしめ給ふ。翁の云はく、「御心を聞きて候ひつるなり」と云へば、太子、「われ、すでに財(たから)尽きたり」と宣ふ。翁の云はく、「われ年老い、身貧しくして、遺(のこ)りの命堪へがたし。二人の御子を給はりて、老いの身を助け養はしめむ」と丁寧(ねんごろ)に乞ふこと三度(みたび)に至る。太子、涙を落す。子を思ふことも限りなく、翁の悲しぶことも、いよいよ深ければ、「はるかに憑(たの)みて来たれり。所願を違へじ」と宣ふ。翁、大きに喜ぶ。

太子、子を1)呼ぶに、隠れ忍びて答へず。みづから出でて、求め取りて語らふ。「もし、われを祖(おや)と念(おも)はば、この人に随(したが)ひて行け」と云へば、二人の子、太子の脇の下に入りて、呼(さけ)び泣きて云はく、「この翁はこれ鬼なり。われを遣るは命を殺すなり。母返りて、われを求め給はむこと、子を失へる牛のごとく走り迷はば、父も必ず悔い悲しび給ひなむ。なほしばし母の返り給はむを待ち給へ」と云へば、翁の云はく、「母来り給ひなむ、必ず止(とど)め妨げられなむ。もし恵まば、早く給はりて去りなむ」と云ふ。太子、しひて誘(こしら)へて、手を引きて授くる時に、大地振ひ動く。

子、逃げて、太子の前に入りて、「われ昔いかなる罪を造りて、今この苦しびに会ひぬるならむ。国王の種に生まれて、卑しき民の仕ひ人とならむ」と云ひて、共に泣く。太子、誘(こし)らへ語りて宣ふ。「親と云ひ、子と云へども、つひにはみな長く別れなむとす。万(よろづ)のこと常無し。いづれをも憑むべきにあらず。われ仏に成りなむ時に、みづからまさに引導し2)渡さむ」と教へ誘(こしら)へて、強(し)ひて授くれども、なほ母が面(おもて)を見ずして永く別れむことを悲しびて、「わが母、何に依りて今日しも遅く返り給ふ。われ今去りなむとす。早く来てあひ見給へ」と泣きて、臥しまろびて、去らず。

翁の云く、「年老いて力少し。足なへぎて歩みがたし。この二人の子、われを棄てて逃げて、母の御許(おほんもと)に走り行きなば、われさらにいかでか得む。なほ二人を結ひ合はせて授け給はめ。太子、云ふに随ひて、二人の子の手を捕へたれば、翁、寄りて縛りつ。翁、縄の端を捕へて行くに3)、なほ撲(すま)ひて歩かず。翁、篠をもつて打つ。血出でて土を穢す。太子、庭に立ちこれを見るに、涙落ちて土に流る。地すなはち振ひ動く4)。山の獣(けもの)、囀り鳴く。太子、遥かに見送るに、二人の子、遠く行き隠れぬ。

母返りて見給ふに、父独り居給へり。二人の子を尋ね求めて、三度(みたび)問ふに答へず。強(し)ひてまた責め問へば、「貧しき翁来たりて乞ひつるに、取らせて遣りつ」と答ふ。母、地に倒れて臥しまろぶ。涙を流して呼(さけ)び泣く。「二人の子、われを棄てて誰に付きていづち去りぬるぞ。伏す時も居る時も、常に左右(ひだりみぎ)にありて、わが手に菓子(くだもの)あれば、悦びて来たり乞ひ、わが身に塵(ちり)あれば、諍(あら)ひて掃(はら)ひ拭(のご)ひつ。遊び戯れて土にまろびて、鳥獣の方(かた)を作り、種々(くさぐさ)の遊び物を所々に遺(のこ)し止(とど)めたり。これを見るに、いよいよ悲しくして、わが心割くがごとし。ただ、その行きつらむ方を教へよ。走り追ひてあひ見む」と泣き迷(まど)ひ給ふ。太子の宣はく、「君、始め約(ちぎ)りを結びしに、『たとひ諸(もろもろ)の難ありとも、わが心に違へじ』と云ひき。今かく悲しび云ひて、わが心を悩まし乱ること、本(もと)の約(ちぎ)りにあらず」と、教へ誘(こしら)へ給へども、泣き迷(まど)ひて起(たた)ず。

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士ノ許ニ行キテ約ヲ結ヒ道ヲ習フ其時ニ鳩留国ト云フ
遠キ国ニ老衰ヘ貧シキ翁有リ髪ミ白ク面黒ク目多々礼
口チ由加女利其ノ形如鬼シ若キ妻有テ責メテ云ク吾レ
自ラ水ヲ汲ムニ見ル人悪クミ咲フ汝チ仕人ヲ不求ハ吾レ
爰ニ不有シト云ヘハ翁ノ云ク吾レ貧シ誰カ被仕レムト云フ/n1-39l・e1-36l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/39

妻又云ク須太那太子ハ深キ山ニ被追ニタナリ二人ノ子有ラム
行キテ乞ハハ必ス得テムト勧レハ翁ナ太子ノ許ニ杖ニ係テ
尋ネ来レリ此時ニ太子ノ妻ハ菓拾ニ出去タリ二人ノ
子翁ヲ恐テ逃テ隠レヌ翁ノ云ク遠クヨリ奈ツ三歩ツルニ
身挙テヒ留ミ痛タシ又大ニ飢羸レニタリト云太子憐レヒテ
湯ヲ令飲メ菓ヲ令食メ給フ翁ノ云ク御心ヲ聞ヽテ候
ツル也ト云ヘハ太子吾レ已ニ財尽タリト宣フ翁ノ云ク吾レ
年老イ身貧シクシテ遺ノ命難堪シ二人ノ御子ヲ給ハリテ
老ノ身ヲ助ケ令養ムト丁寧ニ乞事三度ニ至ル太子/n1-40r・e1-37r
涙ヲ落ス子ヲ思フ事モ無限ク翁ノ悲フ事モ弥ヨ深ケレハ
遥ニ憑テ来レリ所願ヲ不違ヘシト宣フ翁大キニ喜フ太子ヲ
呼ニ隠レ忍テ不答ス自ラ出テテ求メ取テ語フ若シ吾ヲ
祖ト念ハハ此ノ人ニ随テ行ケト云ヘハ二人ノ子太子ノ脇乃
下ニ入テ呼ヒ泣キテ云ク此ノ翁ハ是レ鬼也リ吾ヲ遣ルハ
命ヲ殺ス也母返テ吾ヲ求給ハム事子ヲ失ヘル牛乃
如ク走リ迷ハハ父モ必ス悔イ悲ヒ給ヒナム猶ホ暫ハシ母ノ返給
ハムヲ待チ給ヘト云ヘハ翁ノ云ク母来リ給ヒナム必ス止メ妨ケラレナム
若シ恵マハ早ク給リテ去リナムト云フ太子強ヒテ誘ラヘテ手ヲ/n1-40l・e1-37l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/40

引キテ授クル時ニ大地振ヒ動ク子逃ゲテ太子ノ前ヘニ入テ
吾レ昔シ何カナル罪ヲ造テ今此ノ苦シヒニ会ヌルナラム国王ノ種ニ
生レテ卑シキ民ノ仕人ト成ラムト云ヒテ共ニ泣ク太子誘ラヘ語
テ宣フ親ト云ヒ子ト云ヘトモ遂ニハ皆長ク別レナムトス万ツノ事
常無シ伊ツ礼ヲモ可憑キニ不有ス吾レ仏ニ成ナム時ニ自ラ
将ニ引導ス渡サムト教ヘ誘ヘテ強ヒテ授レトモ猶母カ面ヲ不見
シテ永ク別レム事ヲ悲ヒテ吾カ母何ニ依テ今日シモ遅ク
返リ給フ吾レ今去ナムトス早ク来テ相見給ヘト泣キテ臥シ丸ヒテ
不去ス翁ノ云ク年老テ力少シ足ナヘキテ難歩シ此ノ二人タリノ/n1-41r・e1-38r
子吾レヲ棄テテ逃テ母ノ御許ニ走リ行ナハ吾レ更ニ何カテカ
得ム猶二人ヲ結ヒ合セテ授ケ給メ太子云フニ随テ二人ノ
子ノ手ヲ捕ヘタレハ翁ナ寄テ縛ツ翁縄ノ端ヲ捕ヘテ猶撲
マヒテ不歩ス翁篠ヲ以テ打ツ血出テテ土ヲ穢カス太子
庭ニ立チ是ヲ見ルニ涙落テ土ニ流ル地即振ヒ動テス(ニス)
山ノ獣ノ囀リ鳴ク太子遥カニ見送ルニ二人ノ子遠ク行キ
隠レヌ母返テ見給フニ父独リ居給ヘリ二人ノ子ヲ尋求テ三度
ヒ問フニ不答ス強ヒテ又責問ヘハ貧シキ翁来テ乞ツルニ取
ラセテ遣リツト答フ母地ニ倒レテ臥シ丸フ涙ヲ流シテ呼ヒ/n1-41l・e1-38l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/41

泣ク二人ノ子吾ヲ棄テテ誰ニ付テ何チ去リヌルソ伏ス時モ居ル
時モ常ニ左リ右ニ有テ吾カ手ニ菓子モノ有レハ悦テ
来リ乞ヒ吾カ身ニ塵リ有レハ諍ソヒテ掃ヒ拭ヒツ遊ヒ戯
テ土ニ丸ヒテ鳥獣ノ方ヲ作リ種々ノ遊ヒ物ヲ所々ニ遺シ
止メタリ是ヲ見ルニ弥ヨ悲シクシテ吾カ心如割シ只其ノ行ツラム
方ヲ教ヘヨ走リ追テ相見ムト泣キ迷ヒ給フ太子ノ宣ハク君
始メ約ヲ結シニ縦ヒ諸ノ難有リトモ吾カ心ニ不違シト云ヒキ今
加久悲ヒ云ヒテ吾カ心ヲ悩マシ乱ル事本ノ約ニ不有スト教ヘ
誘ヘ給トモ泣キ迷ヒテ不起ス暫有テ人来テ云ク吾レ/n1-42r・e1-39r

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/42

1)
底本「子を」なし。前田家本により補う。
2)
「引導し」は底本「引導ス」。文脈により訂正。
3)
底本「行くに」なし。東大寺切「なはのはしをとらへてゆくに」により補う。前田家本「縄端引」だと「引くに」となる。
4)
「動く」は底本「動テス」に別筆で「ニス」と傍書。どちらも読めないため東大寺切により訂正。
text/sanboe/ka_sanboe1-12c.txt · 最終更新: 2024/08/06 18:54 by Satoshi Nakagawa