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text:sanboe:ka_sanboe1-12b

三宝絵詞

上巻 12 須大拏太子(2)

校訂本文

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太子、妻(め)あり。国王の娘なり。形ならびなく、心世に勝れたり。また、二人の幼き男子(をのこご)・女子(をむなご)あり。太子、妻の寝給へるを驚かして宣ふ。「早く起きよ。君は知らぬか。大王、われを追ひて、檀徳の山に遣はさるるは」と宣へば、妻、驚き迷(まど)ひて、「何ごとによりてぞ」と問ふ。太子答へ給ふ。「象を人に与へたるによりてなり」と宣へば、妻、涙を流して、「われも同じく行かむ」と云ふ。太子の云はく、「かの山ははるかに遠かなり。空、常に雲入り暗くして神鳴(なり)なり、雨降ること絶えず、虎狼の諸(もろもろ)の猛(たけ)き種(ともがら)の満ち、毒の虫多く住むなり。石巌(せきがん)山に満ち、荊蕀(けいきよく)道に滋りて、すべて心の恐れぬ時なし。安らかに歩む所なかなり。われら宮の内に養はれて、いまだ世の苦しびを知らず。にはかに野山に入らば、菓(このみ)を食ひ物とし、草の葉を筵(むしろ)とすべし。まして君はいかにかせむ。なほ留り給ひね」と宣ふ。妻また、「たとひ諸(もろもろ)の苦しびありとも、あひ別れむやは。われ深く君を憑(たの)むこと、子の祖(おや)を憑むらむがごとし。同じく行きて共に死ぬとも、もとの約(ちぎり)をば違へず」と1)云へば、太子、憐(うつく)しびて、共に母后(ははきさき)のもとに行きて、白(まう)し給はく、「さらにわれを思ふべからず。ただ王によく任(つかへまつ)り給へ。もし民を苦しましむべき政(まつりごと)あらば、必ず丁寧に申し止め給へ」と。母后(ははきさき)、涙を流して宣はく、「わが身は石のごとくして、今は心もなし。わが子はただ君なり。常に見るだに、なほ飽かず。『遥に遷(うつ)すべし』と聞きしより、神(たましひ)消えて、心失せにたり。わが君を孕みし時には、樹の花を含めるがごとくに悦びき。君を産みてし後よりは、樹の実を結べるかごとくに憑(たの)む。思はざりき、国を隔ててわれを捨てて、遥かに別れむとは」。宣ひ給ひて、皃(かほ)を視て、共に涙を流し給ふこと限りなし。

二万の夫人、四千の大臣、みな泣きて別れを痛む。太子、宮を出づるに、諸(もろもろ)の人泣きて送る。見る者、道に満ちて、泣く声、国を響かす。

太子、送る人を返し遣りて、やうやく遠く行き去るに、人来たりて馬を乞ふ。みづから下りて馬を与へつ。また行けば、人、車を乞ふ。妻を下して車を与へつ。またあまたの人来つつ衣を乞ふ。太子・妻・二人の子の衣を脱ぎて、みな与へ給ひつ。共(とも)の人もみな去りぬれば、太子は男子(をのこご)を負ひ、妻は女子(をむなご)を負ひて脚(かち)よりやうやく歩み行く。この国、山を去れること遥かに遠し。道に止(とど)め息(やす)むる人あれども、王の仰せを慎みて、止められず。

三七日2)経て、苦しび怱(いそ)ぎて、檀徳山3)に至りぬ。山の脚本(ふもと)に大きなる河あり。助けてこれを渡りぬ。山の中に行人(おこなふひと)4)あり。尋ねてこれに会ひぬ。山に住むべき所を問ひ、道を習はむと思ふ志を語らふ。道士、驚き5)悲しびて、その所を教ふ。

太子、山の中、巌(いはほ)の辺(ほとり)に、三つの柴の菴(いほり)6)を並べ作りつ。一つにはみづから居たり。一つには妻を住ましむ。一つには子を遊ばしむ。男子は七歳にして父に随(したが)ひて出で入る。女子は六歳にして母に随ひて出で入る。泉を飲み、菓(このみ)を食ひて、日送り月過ぐすに、谷の水、幽(かす)かに流れて、山の鳥悲しく泣く。時々は道士のもとに行きて約(ちぎ)りを結び道を習ふ。

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シト令申ム太子妻有リ国王ノ娘メ也リ形無双ク
心世ニ勝タリ又二人リノ幼ナキ男子女子有リ太子妻ノ
寝(ネ)給ヘルヲ驚カシテ宣(ノタマ)フ早ク起(ヲ)キヨ君ハ不知ヌカ大王
吾レヲ追テ檀徳ノ山ニ被遣ルルハト宣ヘハ妻驚キ迷テ
何事ニ依テソト問フ太子答ヘ給フ象ヲ人ニ与ヘタルニ依テ也
ト宣ヘハ妻涙ヲ流シテ吾レモ同シク行カムト云太子ノ云ク
彼山ハハルカニ遠カナリ空ラ常ニ雲入暗クシテ神鳴ナリ/n1-37l・e1-34l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/37

雨降ル事不絶ス虎狼ノ諸ノ猛(タ)ケキ種ノ満チ毒ノ虫
多ク住ム也石巌山ニ満チ荊蕀道ニ滋テ惣テ心ノ不
恐時キ無シ安ラカニ歩ム所無カナリ我等宮ノ内ニ被養テ
未知世ノ苦シヒヲ俄カニ野山ニ入ハ菓ヲ食ヒ物トシ草ノ
葉ヲ筵トスヘシ増シテ君ハ何カ為ム猶留リ給ヒネト宣フ妻
又縦ヒ諸ノ苦シヒ有トモ相別レムヤハ吾レ深ク君ヲ憑ム
事子ノ祖ヲ憑ラムカ如シ同ク行キテ共ニ死ヌトモ本ノ約
リヲハ不違テ云ヘハ太子憐シビテ共ニ母后キノ許ニ行キテ
白シ給ハク更ニ吾ヲ不可思ス只王ニ吉ク任リ給ヘ若シ民/n1-38r・e1-35r
ヲ可令苦キ政有ハ必ス丁寧ニ申止給ヘト母后キ涙ヲ流
シテ宣ハク吾カ身ハ石ノ如クシテ今ハ心モ無シ吾ガ子ハ只君也
常ニ見ルタニ猶不飽ス遥ニ可遷シト聞シヨリ神ヒキエ天
心失ニタリ吾カ君ヲ孕シ時ニハ樹ノ花ヲ含メルカ如クニ悦ヒキ
君ヲ産テシ後ヨリハ樹ノ実ヲ結ヘルカ如クニ憑ム不思去リキ
国ヲ隔テテ吾ヲ捨テテ遥ニ別レムトハ宣給ヒテ皃ヲ視テ共ニ
涙ヲ流シ給フ事無限シ二万ノ夫人四千ノ大臣皆泣キテ
別レヲ痛ム太子宮ヲ出ツルニ諸ノ人泣キテ送ル見ル者道ニ
満テ泣ク声国ヲ響カス太子送ル人ヲ返シ遣テ漸ク/n1-38l・e1-35l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/38

遠ク行キ去ルニ人来テ馬ヲ乞フ自ラ下テ馬ヲ与ツ又行
ケハ人車マヲ乞フ妻ヲ下シテ車ヲ与ヘツ又数タノ人来ツツ
衣ヲ乞フ太子妻二人ノ子ノ衣ヲ脱テ皆与給ヒツ共ノ
人モ皆去ヌレハ太子ハ男子ヲ負ヒ妻ハ女子ヲ負ヒテ脚チヨリ
漸ク歩ミ行ク此ノ国山ヲ去レル事遥カニ遠シ道ニ止メ息
スムル人有レトモ王ノ仰ヲ慎ミテ不被止ス経三七日テ苦シヒ
怱テ旦徳山ニ至ヌ山ノ脚本ニ大ナル河有助テ是ヲ渡ヌ
山ノ中ニ行人有リ尋テ是ニ会ヌ山ニ可住キ所ヲ問ヒ道ヲ
習ハムト思フ志ヲ語フ道士駕(驚)キ悲テ其ノ所ヲ教フ太子/n1-39r・e1-36r
山ノ中巌ノ辺ニ三ツノ扉菴ヲ並ベ作ツ一ニハ自ラ居タリ
一ニハ妻ヲ令住ム一ニハ子ヲ令遊ム男子ハ七歳ニシテ父ニ随テ
出入ル女子ハ六歳ニシテ随母テ出入ル泉ヲ飲ミ菓ヲ食ヒテ
送日リ過月スニ谷ノ水幽ニ流テ山ノ鳥悲シク泣ク時々ハ道
士ノ許ニ行キテ約ヲ結ヒ道ヲ習フ其時ニ鳩留国ト云フ/n1-39l・e1-36l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/39

1)
「と」は底本「テ」。文意により訂正。
2)
二十一日。
3)
底本表記「旦徳山」。
4)
「行人」のよみは東大寺切による。
5)
「驚き」は底本「駕キ」で「驚」と別筆で傍書。東大寺切、前田家本も「驚」。
6)
底本「扉菴」。東大寺切「しはのいほり」、前田家本「柴廬」により訂正。
text/sanboe/ka_sanboe1-12b.txt · 最終更新: 2024/08/06 17:35 by Satoshi Nakagawa