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上巻 11 薩埵王子
校訂本文
昔、国王ありき。三人(みたり)の王子ありき。兄(このかみ)をば摩訶波羅(まかはら)と云ふ。次をば摩訶提婆(まかでいば)と云ふ。弟をば摩訶薩埵(まかさつた)と云ふ。
王、山林に出でて遊ぶ。王子、皆侍(さぶ)らふ。大きなる竹の林に至りて、一つの虎の七つの子を産めるを見る。飢ゑに迫まられて、羸(つか)れ疲(や)せたり。死なむこと久しかるまじ。兄の王子の云はく、「悲しきかな。この虎は、子産みて後七日になりにけり。七つの子あり。食ひ物を求むるに、暇(いとま)なくして、飢ゑてみづからの子を食(は)みてむとす」と云ふ。薩埵王子、「この虎は何にをかははむ」と問へば、兄(このかみ)、虎はただ温かなる人の肉をのみこのみなむ食(は)むなると」答ふ。二の王子、聞きて、「それこそは求めがたき物ななれ。誰れかは身を捨ててこれれを済(すく)ふはあらむ」と為し云へば、兄(このかみ)また云ふ、「諸(もろもろ)の物の中に捨がたきは、己(おの)が身より過ぎたるはなし」と云へば、弟の王子の云はく、「われら、おのおの身を守り惜しむは、みな悟りのなきなり。賢(さか)しき人は、身を捨て物の命をこそは救ふなれ」と云ひて、心の内に念(おも)ふ、「この身は、昔、遥かなる世々(せざ)に生(しやう)を替へつつ、空(むな)しくして死にしかども、いたづらに腐り朽ちつつ、一つの得たる所もなし。今日、などかこの虎を済はざるべき」と念ふ。
三人(みたり)の王子、かくのごとくに云ひつつ、心に憐れびて虎を守ること、目暫(しばら)くも捨てず。久しくありて、みな去りぬ。薩埵王子、行くまにいよいよ深く念(おも)ふ、「わが身を捨てむこと、今正(まさ)しくこの時なり。この身は臭く汚なくして、労(いたは)りかしづくべからず。この身は固からぬこと沫(あわ)のごとし。この身は恐るべきこと敵(かたき)の副(そ)へるがごとし。筋(すぢ)骨(ほね)連なり持ち、血(ち)肉(しし)集まりなせり。諸(もろもろ)の悟りある人の、深く罵(にく)み厭(いと)ふ所なり。この身を捨て、まさに道恵(だうゑ)まことに満ち、功徳あまねく厳(かざ)れる、浄(きよ)く妙(たへ)なる仏の身を求めむ」と念(おも)ひぬるに、二人の兄(このかみ)の妨げむを恐りて、「先立ち行き給ひね。われは暫(しば)しおくれて行かむ」と云へば、兄、何心なくして、先立ちて去りぬ。
薩埵王子、走り返りて、林の中に入りて、虎のもとに至りぬ。衣(ころも)を脱ぎ捨て、竹に係けて、「我れ法子1)の諸(もろもろ)の衆生のために、無上道を志し求む。まさに凡夫所愛(ぼんぶしよあい)の身を捨てて、智者の所楽(しよげう)の大慈悲を受くべし」と云ひて、虎の前にき行て、身を任せて臥しぬ。慈悲の力に、虎さらに寄りて食はず。また念(おも)はく、「この虎は疲れ弱ければ、われを食ひがたきならむ」と念(おも)ひて、起(た)ちて、枯れたる竹を取りて頸を差して、血を出だして、また虎の前に歩み近付くほどに、大地震(ふる)ひ動く。風の波を上ぐるかごとし。空の日光りなくして、諸方暗し。空の中より花を雨(ふ)りて、林の間に乱れ落とす。飢ゑたる虎、王子の頸(くび)の下より血の流るるを見て、血をねぶりつつ、肉(しし)を喰(は)み骨を残せり。
二人の兄(このかみ)の云はく、「地、動きて、日、光失へり。花雨(ふ)りて空に満ちたり。空(そら)に知りぬ、これは弟の虎を悲みて身を投げつるなり」と。驚き疑ひて走り返りて見れば、弟の衣(ころも)、竹の上に係れり。血を流して地を潤せり。髪を乱り骨残りて、香(か)満ちたり。
これを見るに、心迷ひて、骨の上に辷(まろ)び伏しぬ。啼(な)き悲しびて云はく、「わが弟、形勝(すぐ)れて、父母ことに悲しび給ひつるを、何によりてか、共に出でつるを、身を捨てて独り返らずなりぬると。父母問ひ給はば、われら、いかにか答へむとする」と、呼(さけ)び泣く。久しくありて、共に去りぬ。このことに恐り憚(はばか)りて、王の供にも行かず。薩埵王子の供の人々に、「王子はいづくへ行き給ひぬるぞと、求め奉れ」と云ふ。
この時に母后(ははきさき)、宮に留まりて高き楼の上に寝たり2)。三つの夢を見る。二つの乳房、割(さ)けて血流れ出づ。一つの牙歯、欠け落ちぬ。三つの鳩あるを、一つ鷹に奪(ばひ)取られぬ。
地の震(ふる)ふに、夢驚きぬ。二つの乳、うつつに流れたり。怪び歎く間に、仕(つかまつ)り女(め)、走り来たりて申す、「知ろしめさぬか。人々別れ散りて、王子を求め奉るなるをば。いまだ見出で奉らざりけり。人の云ひつるを聞つるなり」。
后、驚き迷ひて、王のもとに行き向かひて、「わが子をば失ひ給ひつるか」と宣(のたま)ふ。王、驚きて、涙を落して、諸(もろもろ)の人を率(ひき)ゐて3)林に交(ま)じりて求め給ふに、一人の大臣来たりて申す、「兄(このかみ)の二人の王子、すでにいますなり。薩埵王子いまだ見え給はざなり」と云ふ。王、泣きて「悲しきかな。初め子ある時には、悦び楽しぶこと少なし、後に子を失ひつる時には、愁へ苦しぶこと多し」と宣(のたま)ふ。
また大臣来たりて、「王子すでに身を捨て給ひけり」と申す。王も后も心を迷はし、涙を流して輿に乗て行きて見るに、共に地に倒れぬ。水をもつて面(おもて)に灑(そそ)ぎて、久しくありて音(こゑ)あり。「もしわが子に先立ちて死なましかば、かかる大きなる悲しびを見ましや」と云ひて、震ひ泣く。胸を押さへ地にまろぶこと、魚の陸(くが)にあるがごとし。その残りの骨を取りて、卒都婆(そとば)の中に置きき。
昔の薩埵王子は今の釈迦如来なり。『最勝王経』に見えたり。天竺のことに注(しる)せり。
『西域記』4)に、「その所は土も草木も今になほ赤き色なり。血を塗るがごとし。人、その辺(ほとり)を踏むに、心驚き身ひるむこと荊(いばら)の差すがごとし。心ある物も心なき物も、悲しび痛まずといふことなし」と云へり。
翻刻
昔国王有キ三人リノ王子有キ兄ヲハ摩訶波羅ト云フ次ヲハ 摩訶提婆ト云フ弟ヲハ摩訶薩埵ト云フ王山林ニ出テ遊フ 王子皆侍ラフ大ナル竹ノ林ニ至テ一ノ虎ノ七ノ子ヲ産メルヲ見 ル飢ニ被迫テ羸カレ疲セタリ死ナム事不久ルマシ兄ノ王子ノ 云ク悲キ哉此ノ虎ハ子産ミテ後七日ニ成リニケリ七ツノ子有リ 食ヒ物ヲ求ルニ無暇シテ飢テ自ラノ子ヲ者見天無(ハミテム)ト為ト 云フ薩埵王子此ノ虎ハ何ニヲカハ者むト問ヘハ兄ミ虎ハ只温ナル 人ノ肉ヲ耳(コノミ)ミナム者むナルト答フ二ノ王子聞テ其レコソハ求メ難 キ物ナヽレ誰レカハ身ヲ捨テ此レヲ済フハ有ラムト為シ云ヘハ/n1-33r・e1-30r
兄ミ又云フ諸ノ物ノ中ニ難捨ハ己カ身ヨリ過タルハ無シト云ヘハ 弟ノ王子ノ云ク我等各々身ヲ守リ惜ムハ皆悟ノ無ナリ 賢シキ人ハ身ヲ捨テ物ノ命ヲコソハ救ナレト云テ心ノ内ニ念フ此ノ 身ハ昔シ遥ナル世々ニ生ヲ替ヘツツ空シテ死シカトモ徒ラニ久さ 利朽ツツ一ツノ得タル所モ無シ今日ナトカ此虎ヲ可不済キト 念フ三人リノ王子如是クニ云ツツ心ニ憐レヒテ虎ヲ守ル事目 暫クモ不捨ス久ク有リテ皆去ヌ薩埵王子行マニ弥ヨ深ク 念フ我カ身ヲ捨テム事今正シク此ノ時也リ此ノ身ハ臰ク き太無クシテ労リ加之ツ久へ加良数此身ハ固カラヌ事沫ノ/n1-33l・e1-30l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/33
如シ此ノ身ハ可恐事敵ノ副ヘルカ如シ筋チ骨連ナリ持チ血肉シ 集リ成セリ諸ノ悟リ在ル人ノ深ク罵クミ厭フ所也此身ヲ 捨テ当ニ道恵実トニ満チ功徳普ク厳レル浄ク妙ナル 仏ノ身ヲ求メムト念ヒヌルニ二人ノ兄ミノ妨ケムヲ恐リテ先立行キ 給ヒネ我ハ暫シ於久礼天行ムト云ヘハ兄ミ何ニ心無シテ先 立テ去リヌ薩埵王子走リ返テ林ノ中ニ入テ虎ノ許トニ至 ヌ衣モヲ脱ステ竹ニ係ケテ我レ法子ノ諸ノ衆生ノ為ニ 無上道ヲ志シ求ム当ニ凡夫所愛ノ身ヲ捨テ智者ノ 所楽ノ大慈悲ヲ可受ト云ヒテ虎ノ前ニ行テ身ヲ任テ/n1-34r・e1-31r
臥シヌ慈悲ノ力ニ虎更ニ寄テ不食ス又念ク此虎ハ 疲カレ弱ケレハ我レヲ難食ナラムト念ヒテ起テ枯タル竹ヲ 取テ頸ヲ差シテ血ヲ出シテ又虎ノ前ニ歩ミ近付ク程ニ 大地震ヒ動ク風ノ波ヲ上クルカ如シ空ノ日光リ無シテ諸方 暗シ空ノ中ヨリ花ヲ雨テ林ノ間ニ乱レ落ス飢タル虎王子 ノ頸ノ下ヨリ血ノ流ヲ見テ血ヲ祢不利ツツ肉ヲ喰ミ骨 ヲ残セリ二人ノ兄ノ云地動テ日光失ヘリ花雨リテ空ニ 満タリ空ニ知ヌ此ハ弟ノ虎ヲ悲テ身ヲ投ツルナリト驚疑テ 走リ返テ見レハ弟ノ衣モ竹ノ上ニ係レリ血ヲ流シテ地ヲ潤セリ/n1-34l・e1-31l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/34
髪ヲ乱リ骨残リテ香カ満タリ是ヲ見ニ心迷テ骨ノ上 辷ヒ伏ヌ啼悲テ云ク我弟形勝レテ父母異ニ悲ヒ 給ヒツルヲ何ニ依テカ共ニ出ツルヲ身ヲ捨テ独リ不返ナリヌルト父母 問ヒ給ハハ我等何カニカ答ヘムトスルト呼ヒ泣ク久シク有テ共ニ去 リヌ此事ニ恐リ憚テ王ノ共ニモ不行薩埵王子ノ共ノ人々ニ 王子ハ何クヘ行キ給ヒヌルソト求メ奉レト云フ是ノ時ニ母后キ 宮ニ留リテ高キ楼ノ上ヘニ竅タリ三ツノ夢ヲ見ル二ツノ乳 房割ケテ血流レ出ツ一ツノ牙歯闕ケ落ヌ三ツノ鳩有 ルヲ一ツ鷹ニ被奪取ヌ地ノ震フニ夢驚キヌ二ツノ/n1-35r・e1-32r
乳宇津々仁流レタリ怪ヒ歎ク間ニ仕ツリ女走リ来テ申ス 不知食ヌカ人々別カレ散リテ王子ヲ求メ奉ルナルヲハ未タ 見出不奉サリケリ人ノ云ツルヲ聞ツル也后キ驚キ迷テ王ノ許ニ 行キ向ヒテ我カ子ヲハ失ヒ給ヒツルカト宣マフ王驚テ涙ヲ 落シテ諸ノ人ヲ哉居テ林ニ交テ求メ給フニ一人ノ大臣 来テ申ス兄ノ二人リノ王子既ニ伊坐スナリ薩埵王子未タ 見エ不給サナリト云フ王泣テ悲哉初メ子有ル時ニハ悦ヒ楽シフ 事少シ後ニ子ヲ失ヒツル時ニハ愁ヘ苦シフ事多シト宣マフ 又大臣来リテ王子既ニ身ヲ捨テ給ケリト申ス王モ后モ/n1-35l・e1-32l
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/35
心ヲ迷シ涙ヲ流シテ輿ニ乗テ行テ見ルニ共ニ地ニ倒レヌ 水ヲ以テ面ニ灑テ久ク有テ音在リ若シ我カ子ニ先立テ 死マシカハ加々留大ナル悲ヒヲ見マシヤト云ヒテ震ヒ泣ク胸ヲ押ヘ 地ニ丸フ事魚ノ陸カニ如有シ其ノ残リノ骨ヲ取テ卒 都婆ノ中ニ置キ昔ノ薩埵王子ハ今ノ尺迦如来也 最勝王経ニ見タリ天竺ノ事ニ注セリ 西域記云其ノ所ハ土モ草木モ于今猶赤キ色也 血ヲ如塗ルカ人其ノ辺リヲ踏ムニ心驚キ身比留む 事荊(イハラ)ラノ如(シ)差(サスカ)シ心有ル物(モ)心無(ナキ)キ物(モ)悲ヒ不痛(イタマ)ト/n1-36r・e1-33r
云フ事無シト云ヘリ/n1-36l・e1-33l