古本説話集
第54話 田舎人の女子、観音の利生を蒙る事
田舎人女子蒙観音利生事
田舎人の女子、観音の利生を蒙る事
校訂本文
今は昔、田舎人の徳ありけるが、一人娘、いみしくかなしくしける父母亡くなりて、頼りなく、ずちなくなりて、多かりし使ひ人も、みな行き散りて、心細くわびしくて過ぐるほどに、廿にも余りて、やうやう盛り過ぎ、懸想する人もあまたあれど、「かかるあやしの物は、ただうち見て捨てんをば、いかがせん」など思ひて過ぐるままに、親の作りまいらせたる観音のおはします御前に参りて、「助けさせ給へ」と申しつつ、そればかりをたのむことにはしける。
津の国の輪田といふ所に住みけるに、ただ一人、食ひ物もなくて、あさましくてゐたるに、泣く泣く観音の御前に参りて、身のことを申て寝たる夢に、「まことにいとほしくおぼしめす。頼りになるべき物は、召しに遣はしつ」と見て、頼もしく思ひていたるほどに、人来て宿借る。「とく居よ」とて貸しつ。
見れば、三十余ばかりなる五位の、いみじく徳ありげなり。人多く具くして宿りぬ。我は奥に入りて隠れ居たるに、物食ひなどして、家主(いゑあるじ)がりもおこせおとなふに、人ありげもなかりければ、「頼りなげなる人にこそ」といとほしく思ひて、やをらのぞきければ、見目よき女房の、ただ一人居たりければ、「語らひてん」と思ひて、「さのみこそは候へ。少し近く寄らせ給へ。何事も頼みまゐらせん」など、言ひ寄りて、その夜あひにけり。
さて、まことしう、いとほしくおぼえにければ、「妻(め)にして、具してゐたる所へ来(こ)」など言ひて、明けぬれば、物どもしたためて、その日は居て、この女房に物言ひ語らひ、あるべきことども言ひ教へなどして、暁に奥の郡に沙汰すべきことありて過ぎぬ。筑前1)の国より来たる人なりけり。
「四五日はあらんず」と言ひ置きて、「そのほど、心変らで待ち給へ」など、ねんごろに語らひて出づれば、女、「言ふことまことならば、さてこそはあらめ。夢にも見えしかば、それを頼もしく思ひて、待つほどもはかなし。
さて、「来たらむに、馬の草などだになからんこそ心憂けれ。あまりかく不合(ふがう)なるこそ、心にくくは思ふまじけれど、おのづからつゆのこともなき主(しう)こそあらめ、供の人などの思はんことよ」と思へど、かなふまじけれは、桟敷のあるよりさし出でて、心ゆかしに見れば、としごろ使ひし女ばらの、今は侮(あなづ)りて寄りつかぬが、大路井(おほぢゐ)を汲みて立てるをや。「をのれ有けるは。など見えぬぞ。来かし」と言はれて、「まことにおろかにも思ひまいらせねど、え参らず。急ぎ候ひて」と言ひながら来たり。「頼りなくて、かくてゐたるに、あはぬことなれど、今二三日のほど、馬の草の少し欲しき。くれてんや」と言へば、「やすく候ふ事。まゐらせてん。頼り取らせ給ひて候ふか。さらば、それならぬこともしてまいらせてん。いかでか」なんど言ひて、草、期(ご)もなく持て来(き)、食ひ物など、さまざま持て来て置きたり。うれしく思ひて、「やがて人来たらんに、おのれも居てみえよ。ただ一人あるに」など言へば、「やすく候ふ事。宮仕ひし候ひなん」とて、あはれにし歩くほどに、男帰り来たり。人もなく、ずちなげなりしに、物もあり、女も居たれば、従者(ずさ)どもも「よし」と見けり。
さて、三日ばかりありて、出で立ちて具して行く。この女、さまざま物ども多く持てくれば、「いかに、かくあまりはするぞ。かたはらいたく」と言はれて、「月ごろ参らぬことだに候ふ。いかでか」とて、暁(あかつき)まで出だし立つ。男も供の物どもも、「むげにかなはぬ人にはあらざりけり」と見けり。
「この女、かくあはれにあたるに、むげにすることのなき、いとほし」と思ひて、色けうらに、良き袴の新しき、残して持たりけるを、「形見にせよ。また越前へは、もともうちつけには行くまじけれど、かくてもすべき方なければ、心も知らぬ人に具して往ぬる」など言ひて、取らするを取らず。「旅にては見苦しくおはしまさむず。奉りてこそおはしまさめ。あるまじきこと」とて、さらに取らぬを、「口惜しく、形見にも見よかし。同じ心にはなき」と言はれて取りつ。
世にあはれに言ひ契りて、「出づ」とて、「まこと、仏の御前に参りて暇申さん」とて、つとめて参りたれば、昨夜(よべ)女に取らせし袴を御前に置かせ給て、少し御膝の上に引き懸けてこそ見えさせ給ひたりけれ。
女に変じて日ごろ歩かせ給ひ、物ども賜びなどせさせ給ひける。世にあさましく、悲しく、臥しまろび泣きても、あまりぞ有ける。遠く離れまいらせて往なん悲しさを思へども、するかたなし。あふなくおぼゆる方も、頼もしくなりぬれど、遠くなりまゐらするぞ、悲しかりける。
されば、親の作りまいらせたりける験(しるし)に、かかる御徳を見て、めでたく越前へ行きて、楽しく、子など生み続けて、もとの家をば堂になして、観音にえもいはずつかうまつり、また、作りまゐらせなどして、いよいよ栄え、めでたく有けり。
「いづれの仏かはおろかにおはします」と申す中にも、観音の御有様、すぐれてめでたし。ただ信を起こして、つかうまつるべし。
翻刻
いまはむかしゐ中人のとくありけるかひとり/B160 E82
むすめいみしくかなしくしけるちちははなく なりてたよりなくすちなくなりておほか りしつかひ人もみないきちりて心ほそく わひしくてすくるほとに廿にもあまりてやうやう さかりすきけさうする人もあまたあれとかかる あやしの物はたたうちみてすてんをはいかか せんなと思ひてすくるままにをやのつくりまいらせ たる観音のをはします御まへにまいりてた すけさせ給へと申つつそれはかりをたのむ ことにはしけるつのくにのわたといふところに/B161 E82
すみけるにたた一人くひ物もなくてあさま しくてゐたるになくなく観音の御まへに まいりてみのことを申てねたるゆめにまこ とにいとをしくおほしめすたよりになるへき 物はめしにつかはしつとみてたのもしく思ひてい たるほとに人きてやとかるとくゐよとてかし つみれは三十よはかりなる五位のいみしくとく ありけなりひとおほくくしてやとりぬ我は おくにいりてかくれゐたるに物くひなとして いゑあるしかりもをこせおとなふに人ありけも/B162 E83
なかりけれはたよりなけなる人にこそといと おしく思ひてやをらのそきけれはみめよき 女房のたたひとりゐたりけれはかたらひ てんと思ひてさのみこそは候へすこしちかく よらせ給へなに事もたのみまいらせんなと いひよりてそのよあひにけりさてまことし ういとをしくおほえにけれはめにしてくし てゐたる所へこなといひてあけぬれは物とも したためてその日はゐてこの女房に物いひかた らひあるへきことともいひをしへなとして/B163 E83
あかつきにおくのこほりにさたすへきことあ りてすきぬちく(ゑち歟)せんのくによりきたる人 なりけり四五日はあらんすといひをきてそ のほと心かはらてまち給へなとねんころにかたら ひていつれは女いふことまことならはさてこそ はあらめゆめにもみえしかはそれをたのも しく思ひてまつほともはかなしさてきたら むにむまのくさなとたになからんこそ心うけ れあまりかくふかうなるこそ心にくくはおもふ ましけれとをのつからつゆのこともなきし/b164 e84
うこそあらめともの人なとの思はんことよと おもへとかなふましけれはさしきのあるより さしいてて心ゆかしにみれはとしころつかひし をんなはらのいまはあなつりてよりつかぬ かおほちゐをくみてたてるをやをのれ有 けるはなとみえぬそこかしといはれてまことに をろかにも思まいらせねとえまいらすいそき候て といひなからきたりたよりなくてかくて ゐたるにあはぬことなれといま二三日のほと むまのくさのすこしほしきくれてんやといへは/b165 e84
やすく候事まいらせてんたよりとらせ給 て候かさらはそれならぬこともしてまいらせて んいかてかなんといひてくさこもなくもて きくひものなとさまさまもてきてをきた りうれしく思ひてやかて人きたらんにを のれもゐてみえよたた一人あるになといへは やすく候事みやつかひし候なんとてあは れにしありくほとにおとこかへりきたり 人もなくすちなけなりしにものもあり女 もゐたれはすさとももよしとみけりさて三/b166 e85
日はかりありていてたちてくしていくこの おんなさまさま物ともおほくもてくれはいかに かくあまりはするそかたはらいたくといはれて 月ころまいらぬことたに候いかてかとてあかつき まていたしたつ男もともの物とももむけに かなはぬ人にはあらさりけりとみけりこの女 かくあはれにあたるにむけにすることのな きいとをしと思ひていろけうらによきはかま のあたらしきのこしてもたりけるをかた みにせよ又ゑちせんへはもともうちつけには/b167 e85
いくましけれとかくてもすへきかたなけれ は心もしらぬ人にくしていぬるなといひてとら するをとらすたひにてはみくるしくおはしまさ むすたてまつりてこそおはしまさめあるま しきこととてさらにとらぬをくちをしく かたみにもみよかしおなし心にはなきと いはれてとりつよにあはれにいひちきりて いつとてまこと仏の御まへにまいりていとま申 さんとてつとめてまいりたれはよへ女にとら せしはかまを御まへにをかせ給てすこし御ひ/b168 e86
さのうゑにひきかけてこそみえさせ給たりけ れ女にへんして日ころありかせ給物ともたひ なとせさせ給けるよにあさましくかなしくふ しまろひなきてもあまりそ有けるとをく はなれまいらせていなんかなしさを思へともす るかたなしあふなくおほゆるかたもたのも しくなりぬれととをくなりまいらするぞ かなしかりけるされはおやのつくりまいらせた りけるしるしにかかる御とくを見てめてたく 越前へゆきてたのしくこなとうみつつけて/b169 e86
もとの家をはたうになして観音にゑもいはす つかうまつり又つくりまいらせなとしていよいよ さかへめてたく有けりいつれのほとけかはおろ かにおはしますと申なかにも観音の御有さま すくれてめてたしたたしんをおこしてつか うまつるへし/b170 e88