唐物語
第23話 後漢の代に荀爽といふ人ありけり心かしこく顔美しき娘をぞ・・・
校訂本文
昔、後漢の代(よ)に荀爽といふ人ありけり。心かしこく、顔美しき娘をぞ持ちたりける。みめ心のたぐひなきのみにあらず、ざえ才覚並びなくて、せぬ様々なかりけり。これによりて、父母(ちちはは)もいつきかしづくこと限りなし。
かかりければ、高き卑しき、さながら心をかけてねんごろに挑み言はせける中に、隠瑜と聞こゆる人、心に足れることやありけん、この娘にあはせてけり。夫、心ざし深くて、またなきものに思ひけるも、まことにことはり深く見えけり。
三年(みとせ)ばかりになりぬれば、月日の過ぐるままには、いとどたぐひなくのみ思えて、さまざまに浅からず契りおきけることども、あまたたびになりぬ。かかるほどに、この男、病にわづらひて後、いくほどなくて、つゐにはかなくなりぬ。女の気色、あるにもあらぬ心地して、悲しさのあまりにや、命も絶えぬとぞ見えける。よそにみる人さへ、いとはしたなきほどに思えけり。
月日はあらたまれども、別れの涙は乾く時なかりけり。父母、「いかにして忘るる草の種を取りてしがな」と思へど、さらにかなふべくも見えず。
この時に同じ里に住みける郭奕といふ人、世に取りて卑しからず。時に用ゐられたり。この男、思ひの他に年ごろ住み渡りける妻(め)はかなくなりて、歎きやうやうおこたるほどに、この女を、「あはれ、いかでか」と、思ふに堪へぬ気色、色に出でぬ。これによりて、父母、煩ひなく許してけり。この女、「悲し」と思ひて、様々にあるまじきよしをねんごろに言ひけれど、「親の心に従はぬは、限りなき罪とは知らずや。みづからの心にこそ、ふさはしからずは思ふとも、いかでか親の本意をば違ふべき」など、なほ言ひけるに、昔の男よりも生まれける父のことは愚かに思ゆ理(ことはり)に負けて、なまじひに出で立ちつつ、今の男のもとへ行く行くも、袖のしづく乾く間もなかりけり。
かかりけれど、男の家近くなりければ、色形をあらためて、喜びたる気色になりぬ。車より降りつつ、なづらかに歩み入りぬ。帳の前に火白くかきたててうち居たる、事柄・気色を見るに嬉しく思ゆること限りなし。また、物なと見たる言葉につけても、恥かしくつつましくのみ思えて、たちまちに間近かく寄るべき心地もせず。臆せられて、やや久しくなるほどに、鐘も打ち、鳥さへ鳴きぬれば、この女、何となくすべきことあり顔にもてなして、身親しき女房、一人二人を具して、端の妻戸の内に入りぬ。かくて後、いたくうち泣きて、女房に語りていはく、「我、昔の契を思ふに、時の間も堪へ忍ぶべき心地せず。さりながら、父に背(そむ)ける罪を恐りて、なまじひにここまては来たれど、生きながら二人の人に契を結ぶべき理(ことはり)なければ、いまは限りの我が身とは知らずや」とて、
親にこそ背かぬ道に入りぬとも古き契をいかが忘れん
「『生きては、一つ床の交はり絶ゆることなく、死なば、また同じ塚の塵にもなりなん』と誓ひしことは、中有の旅の空までも覚えん。我もまた忘れめや」と言ひはつれば、らうたきまなじりより紅(くれなゐ)の涙流れ出づる気色、まことに匂ひ異なる八重紅梅(やへこうばい)の春の朝(あした)の雨にしほれて、よそほひ久しきにかよひたり。
かくて、しばしばかりあるに、身の有様をや思ひさだめけん、指より血を出だして、妻戸の上に書きていはく、「我がかばねをば、隠瑜が墓のかたはらに置け」と書き付くるに、人の気色のしければ、騒ぎて、はての文字二三をば書きさしつ。みづからの帯を解きて、首を引き纏ひて、みづからはかなくなりぬ。
紅の涙にまがふみづぐきの末をだにこそ書きもながさね
しばしあれば、絶え入りぬ。女房かかへて泣き居(を)れども、いふかひなくて、明けぬれば、男入り来て見るに、いかが思えけん、しばしばかり死に入りて、起きもあがらず。
時の人、泣き悲しみけり。この女は、穎川の荀爽が娘、南陽の隠瑜か妻(め)なり。今の夫は、太子師郭奕といふ人なり。
翻刻
むかし後漢のよに荀爽(シユンサウ)といふ人ありけり心 かしこくかほうつくしきむすめをそもち たりけるみめこころのたくひなきのみにあら すさえ才覚ならひなくてせぬ様々なか/m418
りけりこれによりて父ははもいつきかし つく事かきりなしかかりけれはたかきいやし きさなから心をかけてねんころにいとみいは せけるなかに隠瑜(インユ)ときこゆる人心にたれる事 やありけんこのむすめにあはせてけり夫心 さしふかくて又なき物におもひけるもまこ とにことはりふかくみえけりみとせはかりになりぬ れは月日のすくるままにはいととたくひなく のみおほえてさまさまにあさからすちきりおき けることともあまたたひになりぬかかる程/m419
にこのおとこ病にわつらひてのちいくほとなく てつゐにはかなくなりぬ女のけしきあるにも あらぬ心地してかなしさのあまりにやいのちも たえぬとそみえけるよそにみる人さへいとはした なき程に覚けり月日はあらたまれともわか れの涙はかはく時なかりけりちちははいかにして わするるくさのたねをとりてしかなとおもへ とさらにかなふへくもみえすこの時におなし さとにすみける郭奕(クハクエキ)と云人よにとりてい やしからす時にもちひられたりこのおとこ/m420
おもひのほかにとしころすみわたりけるめは かなくなりてなけきやうやうをこたる程に この女をあはれいかてかとおもふにたえぬけし き色にいてぬこれによりてちちははわつらひな くゆるしてけりこの女かなしと思て様々に あるましきよしをねんころにいひけれとおや のこころにしたかはぬはかきりなきつみとはし らすや身つからの心にこそふさはしからすはお もふともいかてかおやの本意をはたかふへきな となをいひけるにむかしのおとこよりもむま/m421
れけるちちのことはをろかに覚ることはりにまけて なましゐにいてたちつついまのおとこのもとへゆ くゆくも袖のしつくかはくまもなかりけり かかりけれとおとこのいゑちかくなりけれは色 かたちをあらためてよろこひたる気色にな りぬ車よりおりつつなつらかにあゆみいり ぬ帳のまへに火しろくかきたててうちゐ たる事からけしきをみるにうれしくおほ ゆる事かきりなし又物なとみたることは につけてもはつかしくつつましくのみおほえて/m422
たちまちにまちかくよるへき心地もせすおく せられてややひさしくなる程にかねもうちと りさへなきぬれはこの女なにとなくすへき ことありかほにもてなして身したしき女 房ひとりふたりをくしてはしのつまとの うちにいりぬかくてのちいたくうちなきて 女房にかたりていはく我むかしの契を思ふ に時のまもたえしのふへき心地せすさり なからちちにそむけるつみをおそりてな ましゐにここまてはきたれといきなか/m423
らふたりの人に契をむすふへきことはりな けれはいまはかきりの我身とはしらすやとて おやにこそそむかぬみちにいりぬとも ふるき契をいかかわすれん いきてはひとつゆかのましはりたゆる事なく しなは又おなしつかのちりにもなりなんと ちかひしことは中有のたひのそらまても 覚えん我も又わすれめやといひはつれはらう たきまなしりよりくれなゐの涙なかれ いつるけしきまことににほひことなるや/m424
へこうはいの春のあしたの雨にしほれてよ そほひひさしきにかよひたりかくてしはし はかりあるに身のありさまをやおもひさため けんゆひよりちをいたしてつまとのうへに かきていはく我かはねをは隠瑜かはかのかたはら にをけとかきつくるに人の気色のしけれ はさはきてはてのもし二三をはかきさし つみつからのおひをときてくひをひき まとひて身つからはかなくなりぬ くれなゐの涙にまかふみつくきの/m425
すゑをたにこそかきもなかさね しはしあれはたえいりぬ女房かかへてなきをれと もいふかひなくてあけぬれはおとこいりきてみる にいかかおほえけんしはしはかりしに入ておきも あからす時の人なきかなしみけりこの女は穎川(エイセン) の荀爽かむすめ南陽の隠瑜かめ也いまの夫は 太子師郭奕と云人也/m426