下巻 第34 出家と盗人の事
校訂本文
ある法師、道を行きけるところに、盗人(ぬすびと)一人行き向かつて、かの僧を頼みけるは、「見奉れば、やんごとなき御出家なり。われ並びなき悪人なれば、願はくは御祈りをもつて、わが悪心をひるがへし、善人となり候ふやうに祈請(きせい)し給へかし」と申しければ、「それこそわが身にいとやすきことなれ」と領掌(りやうじやう)せられぬ。かの盗人も、かへすがへす頼みてそこを去りぬ。
その後はるかにほど経て、かの僧と盗人と行き会ひけり。盗人、僧の袖をひかへて、怒(いか)つて申しけるは、「われ、御辺(ごへん)を頼むといへども、そのかひなし。祈請し給はずや」と申しければ、僧、答へて云はく、「われ、その日より片時(へんじ)のいとまもなく御辺のことをこそ祈り候へ」とのたまへば、盗人、申しけるは、「おことは出家の身として、虚言(そらごと)をのたまふものかな。その日より悪念のみこそおこり候へ」と申しければ、僧のはかりごとに、「にはかに喉かはきてせんかたなし」とのたまへば、盗人申しけるは、「これに井戸の侍るぞや。われ上より縄を付けて、その底へ入れ奉るべし。飽くまで水飲み給ひて、上がりたく思し召し候はば、引き上げ奉らん」と契約して、件(くだん)の井戸へ押し入れけり。
かの僧、水を飲んで、「上げ給へ」とのたまふ時、盗人、力を出だして、「えいや」と引けども、いささかも上がらず。「いかなれば」とて、さしうつぶして見れば、何しかは上がるべき、かの僧、そばなる石にしがみつきてをるほどに、盗人怒つて申しけるは、「さても御辺は愚かなる人かな。その儀にてはいかが。祈祷も験(しるし)あるべきや。その石放し給へ。やすく引き上げ奉らん」と云ふ。僧、盗人に申しけるは、「さればこそ。われ、御辺の祈念(きねん)をいたすも、このごとく候ふそよ。いかに祈りをなすといへども、まづ御辺の悪念の石を離れ給はず候ふほどに、鉄(くろがね)の縄にて引き上ぐるほどの祈りをすればとて、鉄(かね)1)の縄切るるとも、御辺のごとく強き悪念は善人になりがたう候」と申されければ、盗人、うちうなづいて、かの僧を引き上げ奉り。足もとにひれふして、「けにもがな」とて、それより元結(もとゆひ)切り、すなはち僧の弟子となりて、やんごとなき善人とぞなりにけり。
この経を見ん人は、たしかにこれを思へ。ゆるがせにすることなかれ。
万治二年版本挿絵
翻刻
卅四 出家と盗人の事 ある法師道を行ける所に盗人一人ゆきむかつ てかの僧をたのみけるは見たてまつれはやんこと なき御出家也われならひなき悪人なれはねかはく は御いのりをもつてわか悪心をひるかへし善人 となり候やうにきせいしたまへかしと申けれは それこそ我身にいとやすき事なれとりやうしやう/3-116l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/116
せられぬかのぬす人も返々たのみてそこをさり ぬ其後はるかに程経てかの僧とぬす人とゆきあひ けりぬす人そうの袖をひかへていかつて申けるは われ御辺をたのむといへともそのかひなしきせい し給はすやと申けれはそう答云我其日よりへん しのいとまもなく御辺の事をこそいのり候へと のたまへはぬす人申けるはおことは出家の身とし てそらことをのたまふ物かなその日より悪念のみ こそおこり候へと申けれはそうのはかりことに 俄にのとかはきてせんかたなしとのたまへは ぬす人申けるはこれに井との侍るそや我うへ/3-117r
よりなはを付てそのそこへ入奉るへしあくまて水 のみ給ひてあかりたくおほしめし候ははひきあけ 奉らんとけいやくして件の井とへおし入けり かの僧水をのんて上給へとのたまふ時盗人力を出 してえいやとひけともいささかもあからすいかな れはとてさしうつふしてみれは何しかはあかる へきかの僧そはなる石にしかみつきておる程に盗 人いかつて申けるはさても御辺はをろかなる人 かなその儀にてはいかかきたうもしるし有へきや 其いしはなし給へやすくひき上奉らんと云そう ぬす人に申けるはされはこそわれ御辺のきねんを/3-117l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/117
いたすも此ことく候そよいかにいのりをなすといへ 共まつ御辺の悪念のいしをはなれ給はす候程にく ろかねのなはにて引上る程のいのりをすれはとて 兼のなはきるる共御辺のことくつよき悪念は善 人に成かたふ候と申されけれはぬす人うちうなつゐ てかのそうを引上奉り足本にひれ臥てけにもかな とてそれよりもとゆひきり則そうの弟子となりて やんことなきせん人とそなりにけり此経をみん人 はたしかに是を思へゆるかせにする事なかれ 伊曾保物語下終/3-118r