目次
上巻 第1 本国の事
校訂本文
さるほどに、エウラウパのうちヒリジヤの国のトロヤといふ所に、アモウニヤといふ里あり。その里にイソポといふ人ありけり。その時代、エウラウパはの国中(こくぢう)にかほどの醜き人なし。そのゆゑは、頭(かうべ)は常の頭二つ重(かさ)あり。眼(まなこ)の玉つばくみ出でて、その先平らかなり。顔貌(かほかたち)色黒く、両の頬うなだれ、首ゆがみ、背(せい)低(ひき)く、足長くして太し。背中かがまり、腹ふくれ出でて曲れり。もの云ふこと面白げなり。その時代、このイソボ、人にすくれて醜き者なきがごとく、その上、才覚また並ぶ人なし。
されば、その里に戦ひ起こつて、他国の軍勢乱れ入り、かのイソポをからめ捕りて、遥かのよそへ聞こえけるアテエルスと云ふ国のアリシテスといふ人に売れり。かの者の姿の見苦しきを見て、「なすべきわざなければ」とて、わが領地につかはし、百姓らに等しく牛馬を飼はしむるわざをなん行なふ。かくて年経ぬれど、さるべき人とも知らずなん侍りける。
折節、ある商人(あきびと)、この者を買ひ取る。アリシテス「得たりしこし」と、かの商人に売り渡さる。なほ別の人二人買ひ添へ、以上三人召し具して、サンといふ所に難なく行きけり。
その里において、シヤントといへるやむごとなき知者の行き合ひ、かの商人に尋ねて云はく、「御辺(ごへん)の召し具しける者どもは、何事をかはし侍るぞ」とのたまへば、商人答へて云はく、「一人は琵琶を引くげに候ふ」と申しければ、かのシヤント、すぐに二人の者に問ひ給はく、「面々は何事をし侍るぞ」と仰せければ、二人もろともに答へて云はく、「あらゆるほどのことをば、かたのごとく知り侍る」と申す。
その後、またイソポに、「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給へば、イソポ答へて云はく「われはこれ骨肉(こつにく)なり」と申しければ、「われ、なんぢに骨肉(こつにく)を問はず。なんぢ、いづくにて生まれけるぞや」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「われはこれ母の胎内より生まれ候ふ」と申す。「なんぢに母の胎内問はず。なんぢの生まれたる所は、いづくの国ぞ」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「われはこれ母の生みたる所にて育たり候ふ」と申す。
その時シヤント、「彼が返答は、ただ魚の島をめぐるがごとし。さて、なんぢは何事をか知り侍る」と問はせ給へば、イソポ答へて云はく「何事をも知り侍らぬ者にて候ふ」と申す。その時シヤント重ねて仰せけるは、「人として物のわざなきことあたはず。なんぢ、何のゆゑにかしわざなきや」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「われ何をかなすと申べき。そのゆゑは、件(くだん)の両人、『あらゆるほどのことをば知る』と言へり。これにもれて、われ何をか知り候ふべきや」と申す。
その時シヤント、イソポに問ひ給はく、「われ、なんぢを買ひ取るべし。なんぢにおいてい かん」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「ただそのことは、その身の心にあるべし。いかでかそれがしに尋ね給ふぞ」と申す。シヤント、重ねてのたまふは、「われ、なんぢを買ひ取るべし。かの時逃げ去るべきや」と仰せければ、イソポ答へて云はく、「われ、この所を逃げ去らん時、御辺(ごへん)の意見を受くべからず」と申す。
かやうにさまざま興(きよう)がる答へどもし侍りければ、心よせに思ひて、いささかの価(あたひ)に買ひ取り、かの商人と行き給ふに、ある関の前にて、かのイソポが姿を見て、「怪しの者や」と留め置きて、「これは誰の召し具し給ふ者ぞ」と尋ねければ、シヤントも商人も、あまりにイソポが醜きことを恥ぢて、「知らず」と答ふ。イソポこのよし承り、「あな嬉しのことや。われに主なし」と言ひて、いさみあへる。その時、シヤントも商人も1)、「これはわが所従(しよじゆう)にて候ふ」とのたまひ、それよりシヤント、イソポを召し連れ、わがもとへ帰り給ふなり。
翻刻
伊曾保物語上 第一 本国の事 去程にえうらうはのうちひりしやの国のとろやと云 所にあもうにやといふ里ありそのさとにいそほ といふ人ありけり其ちたひえうらうはのこく中に かほとのみにくき人なし其ゆへはかうへはつねの かふへふたつかさありまなこの玉つはくみいてて そのさきたいらかなりかほかたちいろくろく両の ほううなたれくひゆかみせいひきくあしなかくし てふとしせなかかかまり腹ふくれいててまかれり もの云ことおもしろけなりその時代此いそほ人に/1-4l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/4
すくれてみにくき物なきかことくそのうへ才かく 又ならふ人なしされはその里にたたかひおこつて たこくのくんせいみたれ入かのいそほをからめと りてはるかのよそへきこえけるあてえるすと云国 のありしてすといふ人にうれりかの物のすかた のみくるしきをみてなすへきわさなけれはとて我 りやうちにつかはし百姓等にひとしく牛馬をかは しむるわさをなんおこなふかくて年へぬれと さるへき人ともしらすなん侍りける折節ある商人 此者をかいとるありしてすゑたりしこしとかの 商人にうりわたさるなを別の人二人かいそへ以上/1-5r
三人めしくしてさんといふ所になんなく行けり 其里においてしやんとといへるやむことなき知者 のゆきあひかの商人にたつねていはく御辺のめし くしけるものともはなに事をかはし侍るそと のたまへは商人答云一人は琵琶を引けに候と申 けれはかのしやんとすくに二人のものにとひたま はくめんめんは何事をし侍るそと仰けれは二人もろ ともに答云あらゆるほとの事をはかたのこと くしり侍ると申そののち又いそほに汝はいかなる 物そととひ給へはいそほ答云我はこれこつにく也 と申けれは我汝にこつにくをとはす汝いつくに/1-5l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/5
て生れけるそやと仰けれはいそほ答いはくわれは これははのたいないより生れ候と申汝にははの たいないとはす汝の生れたる所はいつくの国そと 仰けれは伊曾保こたへていはくわれはこれ母のうみ たる所にてそたたり候と申そのときしやんとかれ かへんたうはたたうほの嶋をめくるかことしさて 汝はなに事をかしり侍ととはせたまへはいそほ 答云なにことをもしり侍らぬものにて候と申その ときしやんとかさねておほせけるは人として物 のわさなき事あたはすなんちなにのゆへにかし わさなきやとおほせけれはいそほこたへて云われ/1-6r
なにをかなすと申へきその故は件の両人あらゆる ほとの事をはしるといへり是にもれてわれなに をかしり候へきやと申その時しやんといそほに とひたまはく我汝をかひとるへし汝におゐてい かんと仰けれはいそほ答云たた其事は其身の心 にあるへしいかてかそれかしにたつね給ふそと 申しやむとかさねての給ふは我汝をかひとる へしかのときにけさるへきやとおほせけれは伊曾 保答云われこの所をにけさらん時御辺のいけんを うくへからすと申かやうにさまさまけうかる こたへともし侍りけれは心よせに思ひていささ/1-6l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/6
かのあたひにかひとりかの商人と行給ふにある 関のまへにてかのい曾保かすかたをみてあやしの ものやとととめおきてこれはたれのめしくし給ふ 物そとたつねけれはしやんともあき人もあまりに いそほかみにくき事をはちてしらすとことふい そほこのよしうけ給はりあなうれしの事やわれ に主なしといひていさみあへるそのときしやん共 商人も是はわかしよしうにて候との給ひそれより しやんといそほを召つれわかもとへかへり給也/1-7r