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rhizome:藤原公任

藤原公任

ふじわらのきんとう(966〜1041)

概要

小野宮流藤原氏。通称、四条大納言。康保三年(966)〜長久二年(1041)正月一日、76歳没。

関白太政大臣藤原頼忠の長子。母は代明親王の女厳子。

天元四年(981)正五位下、永祚元年(989)蔵人頭、正暦三年(992)参議、寛弘六年(1009)権大納言、長和元年(1012)正二位に至った。

官人としての活躍期は、一条朝の藤原道長全盛期に当たり、源俊賢藤原斉信藤原行成とともに四納言と呼ばれたものの、その地位は家名に比べて低く、万寿元年(1024)致仕、万寿三年(1026)に出家して、北山長谷に隠棲した。

拾遺和歌集初出。小倉百人一首にも採られている。

逸話

大鏡

「公任卿、大井川三船の誉れ」

 ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせたまひしに作文の船・管絃の船・和歌の船と分たせたまひて、その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言のまゐりたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の船に乗りはべらむ」とのたまひて、よみたまへるぞかし、
  をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき
申しうけたまへるかひありてあそばしたりな。御みづからも、のたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事(ひとこと)のすぐるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出でたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
 大臣、永祚元年六月二十六日に、うせたまひて、贈正一位になりたまふ。廉義公とぞ申しける。この大臣の末、かくなり。

古本説話集

著作

rhizome/藤原公任.txt · 最終更新: 2014/05/20 15:30 by Satoshi Nakagawa