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rhizome:和泉式部

和泉式部

いずみしきぶ(976ごろ〜?)

概説

平安時代の歌人。中古三十六歌仙の一人。生没年未詳。生年は貞元・天元(976〜979)ごろとする説が有力。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の女。小式部内侍は和泉守橘道貞との間の子。

和泉式部日記』は自作説・他作説がある。

その波乱に富んだ生涯から情熱的な和歌で知られ、それにまつわる説話も多い。 私家集に自撰を中心に後人が編んだ『和泉式部集(正集)』(約900首)『和泉式部続集』、及び勅撰和歌集に入集した和歌を中心に抜粋された宸翰本・松井本・雑本と呼ばれるものがある。

勅撰和歌集には拾遺和歌集が初出。

紫式部による評価(『紫式部日記』)

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文走り書きたるに、その方の才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとかしこきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、必ずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌詠みとはおぼえ侍らず。

愛の遍歴

長徳ごろ橘道貞と結婚、翌年小式部内侍を生む。道貞は長保元年(999)和泉守となり、「和泉式部」と呼ばれるようになる。

長保三年ごろ、冷泉天皇皇子の弾正宮為尊親王との恋に陥る。翌長保四年六月為尊親王死去。

長保五年四月、為尊親王の異母弟、帥宮敦道親王の愛を受ける。この時から、親王邸へ入居するまでの十ヶ月を描くのが『和泉式部日記』である。寛弘四年(1007)敦道親王死去。

寛弘六年四月ごろ、一条天皇中宮彰子に出仕する。

寛弘七年、藤原道長家司、丹後守藤原保昌と結婚。

万寿四年(1027)九月(五十歳)、皇太后妍子追善の際に、任国大和にいる夫の代作をしたという『栄華物語』の記事が和泉式部生存を確認できる最後の記事である。

説話

参考

参考サイト

rhizome/和泉式部.txt · 最終更新: 2014/05/08 20:58 by Satoshi Nakagawa