とはずがたり
巻1 3 その後のこといかがありけん知らぬほどにすでに御幸なりにけり・・・
校訂本文
その後のこと、いかがありけん、知らぬほどに、すでに御幸なりにけり。大納言1)、御車寄せ、何かひしめきて、供御参りにける折に、「いふかひなく寝入りにけり。起こせ」など、言ひ騒ぎけるを、聞かせおはしまして、「よし、ただ寝させよ」と言ふ御気色なりけるほどに、起こす人もなかりけり。
これは、障子の内の口に置きたる炭櫃(すびつ)に、しばしは寄りかかりてありしが、衣(きぬ)引きかづきて、寝ぬる後の何事も思ひ分かであるほどに、いつのほどにか、寝おどろきたれば、灯し火もかすかになり、引き物も下してけるにや、障子の奥に寝たるそばに、馴れ顔に寝たる人あり。
「こは何事ぞ」と思ふより、起き出でて去(い)なむとす。起し給はで2)、「いとけなかりし昔より、思し召し初(そ)めて、十とて四つの月日を待ち暮らしつる」。何くれ、すべて書き続くべき言の葉もなきほどに、仰せらるれども、耳にも入らず、ただ泣くよりほかのことなくて、人の御袂(たもと)まで、乾く所なく泣き濡らしぬれば3)、なぐさめわび給ひつつ、さすが情けなくももてなし給はねども4)、あまりにつれなくて、年も隔て行くを、かかる便りにてだになど思ひ立ちて。今は人もさとこそ知りぬらめに、かくつれなくては、いかがやむべき」と仰せらるれば、「さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜の夢の覚むる間もなく、ものをや思はん」など案ぜらるるは、「なほ、心のありけるにや5)」とあさまし。
さらば、「などや、『かかるべきぞ』とも承はりて、大納言をも、よく見せさせ給はざりける」と、「今は人に顔を見すべきかは」と、くどきて泣き居たれば、あまりにいふかひなげに思し召して6)、うち笑はせ7)給ふさへ、心憂く悲し。
夜もすがら、つひに一言葉の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御は今朝にてはあるまじきにや」など言ふ音すれば、「ことあり顔なる朝帰りかな」と独りごち給ひて、起きて出で給ふとて、「あさましく、思はずなるもてなしこそ、振り分け髪の昔の契りも、かひなき心地すれ。いたく人目あやしからぬやうにもてなしてこそ、よかるべけれ。あまりに埋(うづ)もれたらば、人、いかが思はむ」など、かつは恨み、またなぐさめ給へども、つひにいらへ申さざりしかば、「あな力なのさまや」とて、起き給ひて、御直衣など召して、「御車寄せよ」など言へば、大納言の音して、「御粥参らせらるるにや」と聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しき心地ぞする。
翻刻
うるさきやうにてすひつのもとによりふしてね入ぬその のちの事いかかありけんしらぬ程にすてに御幸なりに けり大納言御車よせなにかひしめきてく御まいりにける をりにいふかひなくね入にけりをこせなといひさはき けるをきかせおはしましてよしたたねさせよといふ 御気色なりける程にをこす人もなかりけりこれはしやうし のうちのくちにをきたるすひつにしはしはよりかかりて/s8r k1-6
ありしかきぬひきかつきてねぬる後のなに事も思わかて ある程にいつのほとにかねおとろきたれはともし火もかすかに なりひき物もおろしてけるにやしやうしのおくにねた るそはになれかほにねたる人ありこはなに事そとおもふ よりをきいてていなむとすおこし給はんいとけなかりし むかしよりおほしめしそめてとをとてよつの月日をまち くらしつるなにくれすへてかきつつくへきことの葉もなき 程におほせらるれともみみにもいらすたたなくよりほかの 事なくて人の御たもとまてかはく所なくなきぬらくぬ れはなくさめわひ給つつさすかなさけなくももてなく給 はねともあまりにつれなくてとしもへたて行をかかる/s8l k1-7
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/8
たよりにてたになと思たちていまは人もさとこそしり ぬらめにかくつれなくてはいかかやむへきとおほせら るれはされはよ人しらぬ夢にてたになくて人にも しられて一夜の夢のさむるまもなく物をや思はんなと あんせらるるはなを心のありけるにやとあさましさらは なとやかかるへきそともうけ給はりて大納言をもよく みせさせ給はさりけるといまは人にかほをみすへきかはと くときてなきゐたれはあまりにいふかひなけにおほく めしてうちわたせ給さへ心うくかなし夜もすからつゐに 一こと葉の御返事たに申さて明ぬるをとして還御は けさにては有ましきにやなといふをとすれはことあり/s9r k1-8
かほなる朝かへりかなとひとりこち給ておきていて給とて あさましく思はすなるもてなしこそふりわけかみのむかし のちきりもかひなき心ちすれいたく人めあやしからぬ やうにもてなしてこそよかるへけれあまりにうつもれ たらは人いかか思はむなとかつはうらみ又なくさめ給へとも つゐにいらへ申ささりしかはあなちからなのさまやと ておき給て御なをしなとめして御車よせよなといへは 大納言のをとして御かゆまいらせらるるにやときくも又 みるましき人のやうに昨日は恋しき心ちそする/s9l k1-9