1月7日 大湊
校訂本文
七日になりぬ。同じ港1)にあり。今日は白馬(あをむま)2)を思へどかひなし。ただ、波の白きのみぞ見ゆる。
かかる間に、人の家の池と名あるところより、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃(ながびつ)に担(にな)ひ続けておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、
浅茅生(あさぢふ)の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり
いとをかしかし。この池といふは、所(ところ)の名なり。よき人の、男(をとこ)につきて、下りて住みけるなり。この長櫃の物は、みな人・童(わらは)までにくれたれば、飽きみちて、船子(ふなご)どもは腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海をさへおどろかして、波立てつべし。
かくて、この間に、こと多かり。今日破子(わりご)持たせて来たる人、その名などぞや今思ひ出でむ。この人、歌詠まむと思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、「波の立つなること」と、うるへ言ひて詠める歌、
行く先に立つ白波の声よりも遅れて泣かむわれやまさらむ
とぞ詠める。いと大声なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。
この歌を、これかれ、あはれがれども、一人も返しせず。しつべき人もまじれれど、これをのみいたがり、ものを飲み食ひて、夜更けぬ。
この歌主(うたぬし)、「まだまからず」と言ひて立ちぬ。ある人の子の童なる、ひそかに言ふ。「まろ、この歌の返しせん」と言ふ。驚きて、「いとをかしきことかな。詠みてむやは。詠みつべくは、はや言へかし」と言ふ。「『まからず』とて立ちぬる人を待ちて詠まん」とて、求めけるを、「夜更けぬ」とやありけむ、やがて去(い)にけり。
「そもそも、いかが詠んだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢて言はず。しひて問へば言へる歌、
行く人もとまるも袖の涙川みぎはのみこそ濡れまさりけれ
となん詠める。かくは言ふものか。うつくしければにやあらん、いと思はずなり。「童言(わらはごと)にては何かはせむ。嫗(おむな)翁(おきな)、手捺(てお)しつべし。悪しくもあれ、いかにもあれ、たよりあらばやらむ」とて、置かれぬめり。
翻刻
七日になりぬおなしみなとにありけふ はあをむまをおもへとかひなしたた なみのしろきのみそみゆるかかるあひ たにひとのいへのいけとなあるところ よりこひはなくてふなよりはしめて/kd-14l
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かはのもうみのもことものともなかひ つにになひつつけておこせたりわかな そけふをはしらせたるうたありそ のうた あさちふののへにしあれは みつもなきいけにつみつるわかななり けりいとをかしかしこのいけといふは ところのななりよきひとのをとこ につきてくたりてすみけるなりこの なかひつのものはみなひとわらはまてに/kd-15r
くれたれはあきみちてふなこともは はらつつみをうちてうみをさへおと ろかしてなみたてつへしかくてこの あひたにことおほかりけふわりこも たせてきたるひとそのななとそや いまおもひいてむこのひとうたよまむ とおもふこころありてなりけりとかく いひいひてなみのたつなることとうるへ いひてよめるうた ゆくさきに/kd-15l
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たつしらなみのこゑよりもおくれて なかむわれやまさらむとそよめるいと おほこゑなるへしもてきたるものより はうたはいかかあらむこのうたをこれ かれあはれかれともひとりもかへし せすしつへきひともましれれとこれ をのみいたかりものをのみくひて よふけぬこのうたぬしまたまから すといひてたちぬあるひとのこの/kd-16r
わらはなるひそかにいふまろこの うたのかへしせんといふおとろきていと をかしきことかなよみてむやはよみつ へくははやいへかしといふまからすとて たちぬるひとをまちてよまんとても とめけるをよふけぬとやありけむ やかていにけりそもそもいかかよんたると いふかしかりてとふこのわらはさすか にはちていはすしひてとへはいへる うた ゆくひともとまるもそての/kd-16l
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なみたかはみきはのみこそぬれ まさりけれとなんよめるかくはいふ ものかうつくしけれはにやあらむいと おもはすなりわらはことにてはなに かはせむおむなおきなておしつへし あしくもあれいかにもあれたよりあら はやらむとておかれぬめり/kd-17r