text:karakagami:m_karakagami5-02
目次
唐鏡 第五 後漢光武より献帝にいたる
2 後漢 光武帝(2 即位)
校訂本文
建武元年乙酉夏六月、千秋亭にして皇帝1)の位に即き給ふ。今年乙酉に、日本国垂仁天皇五十四年にあたり侍りし。
九月に詔してのたまはく、「更始2)敗れ走りて、城を棄てて逃れ走り、妻子あかはだかにして、道路に流冗(りうじよう)す。朕はなはだ悲しぶ。更始を封じて淮陽王(くわいやう)とす。吏人の賊、害せるものあらんは、罪大逆に同じからん」。
三年丙午に赤眉(せきび)の君臣面縛(めんばく)せられて、高皇帝の璽綬3)を奉る。この璽緩をば伝国璽(でんこくじ)と申す。また皇 帝の六璽ともいへり。
秦始皇4)、天下をさだめて後、藍田山(らんでんさん)の玉をとりて刻めりき。丞相李斯、その文を書きていはく、「命を天に受けて、すでに寿(いのち)永く昌(さか)ゆるなり5)」。
この璽は玉螭虎紐(ぎよくちこちう)あり。高祖6)、覇上に至り給ひし時、秦王子嬰(しえい)奉りき。王莽が位を奪ひし時、太后与へ7)給はざりしかども、威をもて責めしに、恐れて地に投げられし時、璽の上の螭(ち)の一つの角は欠けたるなり。王莽敗れしかば、更始これを受け、更始敗れて赤眉に至る。盆子8)すでに敗れて、光武に奉るなり。
翻刻
建武元年乙酉夏六月千秋亭(天イ)にして皇帝の位に即 給ふ今年乙酉に日本国垂仁天皇五十四年にあたり侍 し九月に詔してのたまはく更始やふれはしりて 城をすててのかれはしり妻子あかはたかにして道路に 流冗(リウシヨウ)す朕はなはたかなしふ更始を封して淮陽(クワイヤウ)王とす 吏人の賊(ソク)害せるものあらんは罪大逆に同しからん三 年丙午に赤眉(セキヒ)の君臣面縛(メンハク)せられて高皇帝の璽(シ) 緩(クワン)をたてまつるこの璽緩をは伝国璽(テンコクシ)と申す又皇 帝の六璽とも云り秦始皇天下をさためて後藍田(ランテン) 山(サン)の玉をとりてきさめりき丞相(シヨウシヤウ)李斯(リシ)その文を/s129l・m229
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/129?ln=ja
かきていはく命を天に受てすてに寿(イノチ)永く昌(サカユル)なり この璽は玉螭虎紐(キヨクチコチウ)あり高祖覇上(ハシヤウ)にいたりたま ひしとき秦王子嬰(シンワウシエイ)たてまつりき王莽(ワウマウ)か位をうは ひしとき太后(タイコウ)あるえ(イタヘ)給はさりしかとも威をもてせめ しにおそれて地になけられしとき璽の上の螭(チ)の 一の角はかけたるなり王莽やふれしかは更始これ をうけ更始やふれて赤眉(セキヒ)にいたる盆子(ホンシ)すてにや ふれて光武にたてまつるなり/s130r・m230
text/karakagami/m_karakagami5-02.txt · 最終更新: 2023/03/21 22:09 by Satoshi Nakagawa