巻2第4話(18) 妄語得失の事
校訂本文
仏法の中に権実(ごんじつ)の二教これあり。権教は一向妄語(まうご)なり。実教なほ自証の真空冥寂(しんくうみやうじやく)のところに望むれば妄語なり。無言説(むごんぜつ)のところに言説するゆゑなり。しかれども、方便の力の無言説のところに言説を起こし、無身体・現身、説法妄語なり。虚似なれど、これによて衆生利益あれば、慈悲の方便なさずと云ふことなし。これのゆゑに、経に云はく、「実語これ虚語(こご)。語見(ごけん)を生ずるをもつてのゆゑに。虚語これ実語。利益あるをもつてのゆゑに。(取意)」。
されば、「われ妄語せず」と云ふ語見なり。かへつて妄語なり。愚老は、随分の恵性(ゑしやう)あて利益あれば、教訓等に妄語することあり。方便なり。もし利益ある妄語ならば、かへて実語なり。いかが、一向に妄語の志になしはてんや。
一代聖教は凡情頓(とん)に奪ひがたきゆゑ、随他意(ずいたい)の説はみな妄語なり。無言に言を発す、まづ妄語なり。また一代の間、機に随ひて、大小教門説きながら、楞伽1)・像法決疑経等に、「得道の夜より一字も説かず」とのたまへる文、妄語なり、実語なり。終日(ひめもす)に説くとも、意(こころ)これ無言なり。
また、権教も随分には実(じつ)なることあり。機情のごときは、いかに仏化なりといへども、そのことゆゑなきにあらず。経に云はく、「実にあらず、虚(こ)にあらず」。これに多くの義あるべし。非実といは、実教も実にあらず、自証に望むゆゑ、権教も虚にあらず、機縁に約するゆゑなり。
また凡夫(ぼんぶ)は実なり。「二乗は虚」と思ふ。彼の二見に超えたり。かくのごときの義門、無窮(むくう)の法門なり。一偶に拘(かか)はるべからず。万事かくのごとく意(こころ)を得れば、法門の不審、自然(じねん)に開くべし。
肇公2)(でうこう)の「不染塵累般若(ふぜんぢんるいはんにや)の力、能不顕証漚和(のうふけんしようおうわ)の功なり。(取意)」。漚和は方便の梵語なり。智恵あれども方便欠けぬれば利益なし。浄名3)云はく、「無方便恵は縛(ばく)なり」。肇公の云はく、「漚和(おうわ)、般若大恵の称(な)なり」。
されば、二乗の但空(たんくう)は小恵なり。方便なきゆゑに。ただ正直にして時に随つて利益ある、妄語せざる人のごとし。漚和般若は、悪しく読みて心を得ず。譬(たと)へば小豆粥(あつきかゆ)と澄みて読まばにや、濁りて読めば、方便具せる般若の一つなり。小豆粥(あづきがゆ)のごとし。これ料簡なり。釈迦の八相、菩薩の行儀、ことには日本の和光同塵(わくわうどうぢん)の神明、瞋恚(しんい)の相現じ、悪愛(おあい)のことのみある、自証に望むれは一向妄語なり。これ利益のために漚和の方便なり。自証を顕(あらは)さず、ひとへに利他に思へり。
東福寺に、先年、奥州より上りて、寺に住せる若き僧ありけり。典座(てんぞ)さされて、庫(くり)行(つとめ)して、行者(あんじや)・人力(じんりき)に云ひける、「奥州より知識に仰(あふ)がれ参らせて、座禅・学問ばしも一心に勤行の志ありて上りたれば、典座にさされ参らせたること、本意(ほい)なき次第なり。さればとて、仰せに背き寺を出づべし。一回して仰せに随ふべし。ただし、行者・人力、心に合はぬこと聞かば、某(それがし)は不得心の者、腹悪しき者にて、心にかなはぬことあらば、さだめて瞋恚(しんい)忍びがたかるべし。腹立ちても地 獄に堕つべし。同じく堕つる身ならば、ただは堕ちじ。おのれらを打ち殺して、手取り組みて堕つべし」と云ひて、目を見はりて、大きなる棒をそばに置きて下知しければ、「この御坊(ごばう)は恐しげなり。一定(いちぢやう)打たれぬ」と思ひて、すべて命も背かで、瞋恚なくて一回してけりと云へり。さて、棒典座と云ひける。
これ、方便に妄語して、おだしく行ひてけり。おほかた道念有る僧なりけりと云へり。智恵なき者はかくのごときこと思ひよらぬ風情なり。智恵の用(ゆう)は、諸法に定相無く、妄語実語利益を自在にすべし。
正直なるは多くはその徳あり。奈良に貧(まど)しき寺僧ありけり。請用(しやうよう)を得て大きなる饗膳(きやうぜん)あるを、妻子のことを思うて、いと食はで、おろしして、「夕方、小法師を参らせて給はるべし」とて、房の者にあづけて帰りぬ。一人の法師は他行して遅く帰りける。妻子、飢え飢えとしてあるを見て、とく食はせたく思ひて、暮れ暮れに頂(かしら)を包みて形を変へて、小法師がよしにて、「かの御房(ごばう)の御おろしいただき候ふべし」と云ふに、取らせて後、「小法師ども覚えず。余人ばしが妄語して取るか」とて、尋ねて追ひけるに、恥かしさに逃ぐるほどに、古き井に落ち入りて、饍(ぜん)もみなうちこぼし、衣裳(いしやう)湿(ぬ)らし、死ぬばかりにて、なかなか世間披露ありけり。
これ、ただ正直に云ひて、小法師がなくて、われと来たりたるよし云ひたらば、これほどの損も悪名もあらじ。不実なかなか悪しかるべし。このこと存知すべし。
ある上人、鶏(にはとり)の卵(かいご)を取りて、茹でて食ひけるが、小法師に隠して、「茄子漬(なすびづけ)」と名付けて食しける。小法師、これを知りて、ことの次(ついで)に云ひたく思ひて、鶏の暁鳴くを、「御房、御房、茄子漬の父(ちち)の鳴き候ふ。聞かせ給ふか」と云ひける。
ある上人、鮎の白干(しらぼし)を紙に裹(つつ)みて、剃刀(かみそり)と名付けて、隠し置きて食しける。小法師、ことの次に云ひたく思ひけるに、主(あるじ)とともに河を渡るに、鮎の河に見えけるを、「御房、御房、なま剃刀見え候ふ。御足ばし御あやまちあるな」と云ひける。
翻刻
妄語得失事 仏法ノ中ニ権実ノ二教此有リ権教ハ一向妄語也実教猶 自証ノ真空冥寂ノ処ニ望レハ妄語也無言説之処ニ言説スル 故也然レトモ方便ノ力ノ無言説ノ処ニ言説ヲ起シ無身体現 身説法妄語也虚似ナレドコレニヨテ衆生利益アレハ慈悲ノ 方便不作ト云フ事ナシ是ノ故ニ経ニ云実語是虚語以ノ生スルヲ語見ヲ/1-32r
故ニ虚語是実語以ノ有ルヲ利益故ニ取意サレバ我レ妄語セズト云 語見也反妄語也愚老ハ随分ノ恵性有テ利益有ハ教訓 等ニ妄語スル事有リ方便也若シ利益有ル妄語ナラハ反テ実 語也イカガ一向ニ妄語ノ志ニナシハテンヤ一代聖教ハ凡情頓ニ 難奪故随他意ノ説ハ皆妄語也無言ニ言ヲ発ス先妄語也 又一代ノ間随テ機ニ大小教門説ナガラ楞伽像法決疑経等ニ 得道ノ夜ヨリ一字モ不説カトノ給ヘル文妄語也実語也終日ニ 説トモ意コレ無言也又権教モ随分ニハ実ナル事有リ機情ノ如キハ 何ニ雖仏化也ト其ノ事非ス無キニ故也経ニ云非ス実ニ非ス虚ニコレニ多ノ義可シ 有ル非実ト者実教モ非実ニ望ム自証ニ故権教モ非ス虚ニ約スル機縁ニ故也 又凡夫ハ実也二乗ハ虚ト思フ彼ノ二見ニ超タリ如ノ此ノ義門無 窮ノ法門也不可拘ハル一偶ニ万事如ク此ノ得ハ意法門ノ不審自然ニ/1-32l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384726/1/32
開クベシ 肇公ノ不染塵累般若ノ力能不顕証漚和ノ功 ナリ取意漚和ハ方便ノ梵語也智恵アレドモ方便闕ヌレハ無シ利益 浄名云ク無方便恵ハ縛也肇公ノ云漚和般若大恵ノ称也サレバ 二乗ノ但空ハ小恵也無キ方便故ニ只正直ニシテ時ニ随テ利益アル 妄語セザル人ノ如シ漚和般若ハアシクヨミテ不得心譬ハ小豆 粥トスミテヨマハニヤ濁テ読バ方便具セル般若ノ一也如小豆 粥ノコレ料簡也釈迦ノ八相菩薩ノ行儀殊ニハ日本ノ和光同塵ノ 神明瞋恚ノ相現ジ悪愛ノ事ノミアル自証ニ望レハ一向妄語也 コレ利益ノタメニ漚和ノ方便也自証ヲ不顕サ偏ニ利他ニ思ヘリ東 福寺ニ先年奥州ヨリ上テ寺ニ住セル若キ僧有ケリ典座ササレテ 庫行シテ行者人力ニ云ケル奥州ヨリ知識ニ仰ガレマイラセテ坐禅 学問ハシモ一心ニ勤行ノ志有テ上タレハ典座ニササレマイラセタル/1-33r
事無キ本意次第也サレバトテ背キ仰セニ寺ヲ出ヘシ一回シテ可随フ 仰ニ但シ行者人力心ニ合ハヌ事聞ハ某ハ不得心ノ者腹アシキ者 ニテ心ニカナハヌ事アラハ定テ瞋恚忍ビカタカルベシ腹立チテモ地 獄ニ堕ツヘシ同ク堕ル身ナラハ只ハ不ジ堕ヲノレラヲ打殺シテ手 取クミテ可ト堕ツ云ヒテ目ヲ見ハリテ大キナル棒ヲソバニヲキテ下知シ ケレバ此ノ御坊ハヲソロシケナリ一定打レヌト思テスベテ命モ背カテ 瞋恚ナクテ一回シテケリト云ヘリサテ棒典座ト云ケルコレ方便ニ 妄語シテヲタシク行テケリ大方道念有ル僧也ケリト云ヘリ 智恵ナキ者ハ如此事思ヨラヌ風情也智恵ノ用ハ諸法ニ無ク 定相妄語実語利益ヲ自在ニスヘシ ○正直ナルハ多クハ 其徳アリ奈良ニ貧シキ寺僧有ケリ請用ヲ得テ大ナル饗膳 アルヲ妻子ノ事ヲ思テイトクワデヲロシシテ夕方小法師ヲマイラセテ/1-33l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13384726/1/33
給ハルベシトテ房ノ者ニアヅケテ帰ヌ一人ノ法師ハ他行シテ遅ク 帰リケル妻子ウエウエトシテ有ヲ見テトククワセタク思テクレクレニ 頂ヲツツミテ形ヲカヘテ小法師カヨシニテ彼ノ御房ノ御ヲロシ頂 候ヘシト云ニトラセテ後小法師トモヲホヘズ餘人ハシカ妄語 シテ取カトテ尋テヲヒケルニハヅカシサニニグル程ニ古キ井ニ落チ入テ 饍モ皆ウチコボシ衣裳湿シ死ヌバカリニテ中々世間披露有 ケリコレ只正直ニ云テ小法師カナクテ我レト来タリタルヨシ云タラハ 此レ程ノ損モ悪名モアラジ不実中々アシカルヘシ此事存知スベシ ○或上人鶏ノ卵ヲ取テユデテクヒケルカ小法師ニカクシテ茄 子漬ト名ツケテ食シケル小法師コレヲ知テ事ノ次ニ云ヒタク思テ 鶏ノ暁鳴クヲ御房々々茄子漬ノ父ノ鳴候聞セ給フカト云ヒケル ○或上人鮎ノ白干ヲ紙ニ裹テ剃刀ト名テカクシヲキテ食シケル/1-34r
小法師事ノ次ニ云ヒタク思ヒケルニ主トトモニ河ヲ渡ルニ鮎ノ 河ニ見ヘケルヲ御房々々ナマ剃刀見ヘ候御足バシ御アヤマチ アルナト云ケル 雑談集巻之第二 終/1-34l
