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text:towazu:towazu5-12

とはずがたり

巻5 12 夜も明けぬれば立ち帰りてもなほのどまるべき心地もせねば・・・

校訂本文

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夜も明けぬれば、立ち帰りても、なほのどまるべき心地もせねば、平中納言1)のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたること侍りしを尋ね行きて、「御棺(くわん)を、遠(とほ)なりとも、今一度見せ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし、申ししかば、思ひやる方なくて、「いかなる隙(ひま)にても、さりぬべきことや」と思ふ。

試みに女房の衣(きぬ)をかづきて、日暮らし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに御格子参るほどになりて、御棺の入らせ給ひしやらん、御簾の透りより、やはらたたずみ寄りて、火の光ばかり、「さにや」と思えさせおはしまししも、目もくれ、心も惑ひて侍りしほどに、「ことなりぬ」とて、御車寄せ参らせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所、門まで出でさせおはしまして、帰り入らせおはしますとて、御直衣の御袖にて御涙を払はせおはしましし御気色、「さこそ」と悲しく見参らせて、やがて京極面(おもて)より出でて、御車の尻に参るに、日暮らし御所に候ひつるが、ことなりぬとて御車の寄りしに、慌てて履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足にて走り下りたるままにて参りしほどに、五条京極を西へやり回すに、大路(おほぢ)に立てたる竹2)に御車をやりかけて、「御車の簾(すだれ)、片方(かたかた)落ちぬべし」とて、御車ぞい上(のぼ)りて3)直し参らする4)ほど、つくづくと見れば、山科の中将入道5)、そばに立たれたり。墨染の袖もしぼるばかりなる気色、「さこそ」と悲し。

「ここよりや、止まる止まる」と思へども立ち帰るべき心地せねば、次第に参るほどに、物は履かず、足は痛くて、やはらづつ行くほどに、みな人には追ひ遅れぬ。藤の森といふほどにや、男(おとこ)一人会ひたるに、「御幸、先立たせおはしましぬるにか」と言へば、稲荷6)の御前をば御通りあるまじきほどに、いづ方へとやらん参らせおはしましてしかば7)、こなたは人も候ふまじ。夜ははや寅になりぬ。いかにして行き給ふべきぞ。いづくへ行き給ふ人ぞ。あやまちすな。送らん」と言ふ。むなしく帰らんことの悲しさに、泣く泣く一人なほ参るほどに、夜の明けしほどにや、こと果てて、むなしき煙(けぶり)の末ばかりを見参らせし心の中(うち)、今まで世に長らふるべしとや思ひけん。

伏見殿の御所ざまを見参らすれば、この春、女院8)の御方、御かくれの折は、二御方9)こそ御わたりありしに、このたびは女院10)の御方ばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかと推し量り参らするにも、

  露消えし後の御幸の悲しさに昔に帰るわが袂(たもと)かな

語らふべき戸口もさしこめて、いかにと言ふべき方もなし。さのみ迷ふべきにもあらねば、その夕方帰り侍りぬ。

御素服(そふく)召さるるよし承りしかば、昔ながらならましかば、いかに深く染めまし。後嵯峨院御隠れの折は、御所に奉公せしころなりし上、故大納言11)、「思ふやうありて」とて、御素服の中に申し入れしを、「いまだ幼きに、おほかたのはえなき色にてあれかし」などまで承りしに12)、そのやがて八月に、私(わたくし)の色を着て侍りしなど、数々思ひ出でられて、

  墨染の袖は染むべき色ぞなき思ひは一つ思ひなれども

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翻刻

の事とおもひしられ侍しか夜もあけぬれはたちかへりても
なをのとまるへき心ちもせねは平中納言のゆかりある
人御さうそうふきやうとききしにゆかりある女はうをしり/s221l k5-27

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/221

たる事侍しをたつねゆきて御くわんをとをなりとも
いま一とみせ給へと申しかともかなひかたきよし申しかはおもひ
やるかたなくていかなるひまにてもさりぬへきことやとおもふ
心みに女房のきぬをかつきて日くらし御所にたたすめとも
かなはぬにすてに御かうしまいる程になりて御くわんのいらせ
給しやらん御すのとをりよりやはらたたすみよりて火の
ひかりはかりさにやとおほえさせおはしまししもめもくれ心も
まとひて侍しほとにことなりぬとて御車よせまいらせて
すてに出させおはしますに持明院殿の御所もんまていて
させおはしましてかへりいらせおはしますとて御なをしの御袖
にて御涙をはらはせおはしましし御気色さこそとかなしく/s222r k5-28
見まいらせてやかて京極おもてよりいてて御車のしりに
まいるにひくらし御所に候つるかことなりぬとて御くるまの
よりしにあはててはきたりし物もいつ方へかゆきぬらんはたし
にてはしりをりたるままにてまいりしほとに五条京極
をにしへやりまはすに大ちにたてたりたけに御くるまをやり
かけて御車のすたれかたかたおちぬへしとて御くるまそいのほる
てなをなをまいららするほとつくつくとみれは山科の中将入道
そはにたたれたりすみそめの袖もしほるはかりなる気色
さこそとかなしここよりやとまるとまるとおもへとも立帰へき
ここ地せねはしたいにまいるほとに物ははかす足はいたくて
やはらつつゆく程にみな人にはをひをくれぬふちのもりと/s222l k5-29

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/222

いふほとにやおとこひとりあひたるに御幸さきたたせおはし
ましぬるにかといへはいなりの御まへをは御とをりあるまし
き程にいつかたへとやらんまいらせおはしましてしからんこなた
は人も候まし夜ははやとらになりぬいかにしてゆき給へき
そいつくへゆき給人そあやまちすなをくらんといふむなしく
帰らんことのかなしさになくなくひとりなをまいる程に夜のあけし
ほとにやことはててむなしきけふりのすゑはかりをみまいらせし
心の中いままて世になからふるへしとやおもひけんふしみ殿の
御所さまをみまいらすれはこの春女院の御かた御かくれのお
りは二御かたこそ御わたりありしにこのたひは女院の御かたはかり
わたらせおはしますらん御心の中いかはかりかとをしはかり/s223r k5-30
まいらするにも
   露消し後のみゆきのかなしさにむかしにかへるわかたもと哉
かたらふへきとくちもさしこめていかにといふへきかたもなし
さのみまよふへきにもあらねはその夕かたかへり侍ぬ御そふく
めさるるよしうけたまはりしかはむかしなからならましかはいかに
ふかくそめまし後嵯峨院御かくれのおりは御所にほうこう
せしころなりしうへ故大納言おもふやうありてとて御そふくの
中に申いれしをいまたおさなきに大かたのはへなき色にて
あれかしなとまてうけたまはりしにそのやかて八月にわたくしの
色をきて侍しなとかすかすおもひいてられて
   墨染の袖はそむへき色そなきおもひはひとつおもひなれとも/s223l k5-31

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/223

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1)
平仲兼
2)
「立てたる竹」は底本「たてたりたけ」。
3)
「上(のぼ)りて」は底本「のほるて」。
4)
「直し参らする」は底本「なをなをまいらゝする」。
5)
山科資行
6)
伏見稲荷
7)
「しかば」は底本「しからん」。
8)
東二条院・後深草院中宮西園寺公子
9)
後深草院と遊義門院(姈子内親王)。
10)
遊義門院
11)
作者父、久我雅忠
12)
1-14参照。
text/towazu/towazu5-12.txt · 最終更新: 2019/11/12 16:08 by Satoshi Nakagawa