とはずがたり
巻1 34 さるほどに二月の末つ方より心地例ならす覚えて物も食はず・・・
校訂本文
さるほどに、二月の末つ方より、心地例ならず覚えて、物も食はず。しばしは風邪など思ふほどに、やうやう「見し夢の名残にや」と思ひ合はせらるるも、何とまぎらはすべきやうもなきことなれば、せめての罪の報ひも思ひ知られて、心の内の物思ひ、やる方なけれども、かくともいかが言ひ出でん1)、神わざにことづけて、里がちにのみ居たれば、常に来つつ2)、見知ることもありけるにや、「さにこそ」など言ふより、いとどねんごろなるさまに言ひ通ひつつ、「君3)に知られ奉らぬわざもがな」と言ふ。
祈りいしいし心を尽くすも、「誰(た)が咎(とが)とか言はむ」と思ひ続けられてあるほどに、二月の末よりは御所ざまへも参り通ひしかば、五月のころは四月(よつき)ばかりのよしを思し召させたれども、まことには六月(むつき)なれば、違(ちが)ひざまも行末いとあさましきに、六月七日、「里へ出でよ」としきりに言はるれば4)、「何事ぞ」と思ひて出でたれば、帯を手づから用意して、「ことさらと思ひて、四月にてあるべかりしを、世の恐しさに、今日までになりぬるを、御所より十二日は着帯(ちやくたい)のよし聞くを、ことに思ふやうありて」と言はるるぞ、心ざしもなほざりならす思ゆれども、身のなり行かむ果てぞ悲しく覚え侍りし。
三日は、ことさら例の隠れゐられたりしかば、十日には5)参り侍るべきにてありしを、その夜(よ)より、にはかにわづらふことありしほどに、参ることもかなはざりしかば、十二日の夕方、善勝寺6)、「先の例に」とて、御帯を持ちて来たりたるを見るにも、故大納言の7)、「いかにか」など思ひ騒がれし夜(よ)のこと思ひ出でられて8)、袖には露の暇(ひま)なさは9)、「必ず秋の習ひ10)ならねど」と思えても、「一月(ひとつき)などにてもなき違(ちが)ひもいかに」と、はかりなすべき心地せず。
さればとて、水の底まで思ひ入るべきにしあらねば、つれなく過ぐるにつけても、「いかにせん」と言ひ思ふよりほかのことなきに、九月にもなりぬ。
翻刻
けいせいなといふ御さたたえてなしさる程に二月の末つ/s43r k1-76
かたより心ちれいならす覚て物もくはすしはしはかせ なと思程にやうやうみし夢のなこりにやと思あはせらるる もなにとまきらはすへきやうもなき事なれはせめての つみのむくひも思しられて心のうちの物おもひやるかたなけ れともかくともいかかいひけん神わさにことつけてさとかち にのみゐたれはつねにきつつ見しることもありけるにやさに こそなといふよりいととねんころなるさまにいひかよひつつ 君にしられたてまつらぬわさもかなといふいのりいしいし心を つくすもたかとかとかいはむと思つつけられてある程に二月 のすゑよりは御所さまへもまいりかよひしかは五月の比は四月 はかりのよしをおほしめさせたれともまことには六月なれは/s43l k1-77
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/43
ちかいさまも行すゑいとあさましきに六月七日さとへいて よとしきりにいはるれはなに事そと思ひて出たれはおひ をてつからよういしてことさらと思ひて四月にてあるへかり しを世のおそろしさにけふまてになりぬるを御所より 十二日はちやくたいのよしきくをことに思やうありてといは るるそ心さしも猶さりならすおほゆれとも身のなりゆかむ はてそかなしく覚侍し三日はことさられいのかくれゐら れたりしかは十日そいまいり侍へきにてありしをそのよより にはかにわつらふ事ありし程にまいることもかなわさりしかは 十二日の夕かたせんせうしさきのれいにとて御おひをもち てきたりたるをみるにも故大納言のいかにかなと思さはかれし/s44r k1-78
よの事思ひてられて袖には露のひまなさいかならす秋のなら ひならひならねととおほえてもひと月なとにてもなきちかひ もいかにとはかりなすへき心ちせすされはとて水のそこまて 思入へきにしあらねはつれなくすくるにつけてもいかにせん といひおもふよりほかの事なきに九月にもなりぬよの/s44l k1-79