沙石集
巻5第8話(44) 学生の蟻蟎の問答の事
校訂本文
南都の春日野の辺(ほとり)に、学生の房近き所に、蟻と蟎(だに)とありけり。自然に学問するほとりに住みて、ともに1)学生なりけるが、互ひに聞き及びて、「寄り合ひて論議せん」と思ひけるほどに、ある時、道に行きあひて、互ひに悦びて、やがて、蟎、蟻に問ひていはく2)、「何故蟻名蟻耶3)」。「何のゆゑに蟻(あり)を蟻と名付くる。その心いかん」と問ふなり。答ふ、「前後有故名蟻」。「中はくびれて、前後の形あるゆゑに、『あり』といふ」と答ふ。難じていはく、「前後有名蟻者、於輪子等不名蟻」。「前後あるものを『あり』と言ふべくば、輪子(りうご)等をも『あり』と言ふべし」となり。答ふ、「不爾。前得輪子名故、執転提等准例又爾」。先にすでに輪子の名を得たるゆゑに、『あり』と言はず。執転提(しててい)も例せば、またしかなり」と答ふ。
蟻、蟎に問ひていはく、「何故蟎名蟎耶」。答へていはく、「世上谷名蟎」。「背中の上くぼみて、谷(たに)に似たるゆゑに」と答ふ。難じていはく、「背上谷名蟎者、於団子等不名蟎」。「背くぼきゆゑに『だに』と言はば、団子(たんご)をも『だに』と言ふべし」と問ふなり。「前得団子名故突拍子等准例亦爾」。「しからず。先に団子の名を得るゆゑに。突拍子(とびやうし)等もこれになずらふべし」と答ふるなり。
南都にて、ある人語りしかば、才学のために書き侍るなり。前生の学生にてありけるにや。これは野槌4)よりもやさしくこそ思ゆれ。
経論の中に、畜生の問答、多く見えたり。大論5)には、ある池の中に、蛇と亀と蛙と知音にて侍りけり。天下旱(ひでり)して、池の水も枯れ、食物も無うして、飢ゑてそれぞれ6)なりける時、蛇、亀を使者として、蛙のもとへ、「時のほどおはしませ。見参せん7)」と言ふに、蛙、返事に偈(げ)を説きて、「飢渇(けかつ)に責められぬれば、仁義を忘れて、食をのみ思ふ。情も好(よしみ)も世の常の時こそあれ。かかる時なれば、え参らじ」とぞ返事しける。げにも危なき見参なり。くと呑まれなば、いかに思ふとも、蘇る道あらじ。
海の中に虬(きう)といふ物あり。蛇に似て、角(つの)なき物と言へり。妻、懐妊8)して、猿の生肝(いきぎも)を願ひければ、山のほとりに、猿ありける所に行きて、「この山に菓(このみ)多しや」と問ふ。猿のいはく、「はなはだ得がたし」と言へば、虬のいはく、「わが住む海中に、菓の多き山あり。おはしませかし」と言ふ。猿のいはく、「海の中へは、いかでか行かん」と言ふ。虬のいはく、「わが背に乗せて」と言ふ。「さらば」とて、背に乗りて行く。
海中へ遥かに行けども、山も見えず。「いかに、山はいづくぞ」と言へば、「げには、海中にいかでか山あるべき。わが妻、猿の生肝を願へば、そのためなり」と言ふ。猿、色を失ひて、いかにすべきかたなくて申しけるは、「さらば、山にてものたまはで、やすきことなりけるを、わが生肝は、ありつる山に置けり。急ぎつるほどに忘れたり」と言ふ。「さては、肝のためにこそ具して来つれ」と思ひて、「さらば、返りて取りて賜べ」と言ふ。「やすきこと」と言ひければ、返りて、山へ行きぬ。
猿、木に上りて、「海中に山なし。身を離れて肝なし」と言ひて、山へ深く入りぬ。虬、ぬけぬけとして帰りぬ。これは、獣までも狂惑の心のあることを経に説かれたり。
また、烏と鳩と蛇と鹿と山中にりて、互ひに問ふ。「何事か苦なる」と。烏がいはく、「飢ゑほど苦しきことなし。飢ゑぬれば、目も暗く、心迷ひて、網にかかり、命の失せしことも忘る」と。鳩のいはく、「われは、婬欲の心のおこるほどの苦しみなし。胸苦しくほとぼりて耐へ忍びがたし」と言ふ。蛇のいはく、「われは、瞋恚(しんい)ほどの苦なし。腹立ちぬれば、身燃えこがるる」と言ふ。鹿のいはく、「われは、ものの恐しきほどの苦なし。人の音(おと)、弓の影もすれば、身の砕けんことも知らず、谷・峰を越えて走る」と言ふ。
また、百足(むかで)と山神と蛇と知音にて、山中に住みけるが、百足、山神にいはく、「われは百足あれども、余りとも思えず。なんぢ、一つにては、いかでかたやすく歩かん。九十九の足を付くべし」と言ふ。一足がいはく、「われは足一つにて、おどり歩くに不足なし。なんぢが九十九の足、切りて捨てよ」と言ふ。蛇のいはく、「われは一つもなく百もなけれども、腹をもて歩くにこと欠けず。百も一も捨てよ」と言ふ。
このことを思ふに、げにもしかるをや。世を渡る人、所知・荘薗多きも、人をかへりみ、広く振舞へば、余れりとも見えず。百足のごとし。わづかに一所を知る人も、その分を知りて振舞へば、こと欠けず。一足のごとし。また、無縁なるものも、天運限りあれば、必ず飢ゑ凍えず。蛇のごとし。
まことに、宮も藁屋(わらや)も、はてしなし。とてもかくても、ありぬべきものなり。されば、「鶴の脛(はぎ)も切るべからず。鴨の脛も継ぐべからず」と言へり。これは、おのおの自位に住して、天然の道を守り、愁へず9)悦ばざる心にて、無為(ぶゐ)の化を行ふことを言へるなるべし。
かやうの古事を聞くには、学生の蟻蟎、などか問答せざらん。
翻刻
学生之蟻蟎之問答事/k5-170l
南都ノ春日野ノ辺ニ学生ノ房近キ所ニ蟻ト蟎ト有ケリ自 然ニ学問スルホトリニ住テ其ニ学生也ケルカ互ニ聞及テヨリ アヒテ論議セント思ヒケルホトニ或時道ニ行相テ互ニ悦テヤカ テ蟻蟎ニ問テ曰ク何故ソ蟻ヲ名蟻耶 ナニノユヘニアリヲアリ トナツクルソノココロイカント問ナリ 答前後有故名蟻 中 ハクヒレテ前後ノカタチアルユヘニアリトイフト答フ 難シテ云前 後有名蟻者於輪子等不名蟻 前後アルモノヲアリトイフ ヘクハリウコ等ヲモアリト云ヘシトナリ 答不爾前得輪子名 故執転提等准例又爾 サキニステニリウコノ名ヲ得タルユヘ ニアリト云ハスシテテイモ例セハ亦シカナリト答フ 蟻蟎ニ問テ 云何故蟎名蟎耶答云世上谷名蟎セナカノ上クホミテ 谷ニニタルユヘニト答フ難云背上谷名蟎者於団子等不名/k5-171r
蟎 背クホキ故ニタニトイハハタンコヲモタニト云ヘシト問也 前得団子名故突拍子等准例亦尓 シカラスサキニタンコ ノ名ヲウルユヘニトヒヤウシ等モ是ニナスラフヘシト答フル也 南都ニテ或人カタリシカハ才学ノタメニ書侍也前生ノ学生 ニテ有ケルニヤ此ハ野槌ヨリモヤサシクコソ思ユレ経論ノ中ニ 畜生ノ問答多ク見ヘタリ大論ニハ或池ノ中ニ蛇ト亀ト蛙ト 知音ニテ侍リケリ天下旱シテ池ノ水モ枯食物モナフシテウヘテソ レソレナリケル時蛇亀ヲ使者トシテ蛙ノモトヘ時程オハシマセ見 参モント云ニ蛙返事ニ偈ヲ説テ飢渇ニセメラレヌレハ仁義ヲ ワスレテ食ヲノミオモフ情モ好モヨノツネノ時コソアレカカル時 ナレハヱ参ラシトソ返事シケルケニモアフナキ見参也クトノマレ ナハ如何ニ思トモヨミカヘル道アラシ海ノ中ニ虬トイフ物有/k5-171l
蛇ニ似テ角ナキ物トイヘリ妻懐姓シテ猿ノ生肝ヲネカヒケレハ 山ノホトリニ猿アリケル所ニユキテコノ山ニ菓オホシヤトトフサル ノ云クハナハタエカタシト云ヘハ虬ノ云クワカスム海中ニ菓ノ オホキ山アリオハシマセカシトイフ猿ノ云ク海ノ中ヘハイカテカ ユカントイフ虬ノ云ク我背ニノセテトイフサラハトテ背ニノリテ ユク海中ヘハルカニユケトモ山モ見ヘスイカニ山ハイツクソトイヘ ハケニハ海中ニイカテカ山有ヘキ我妻猿ノ生肝ヲネカヘハ其ノ タメナリトイフサル色ヲ失ヒテ如何ニスヘキカタナクテ申ケルハサ ラハ山ニテモノ給ハテヤスキコトナリケルヲ我生肝ハアリツル山ニ ヲケリ急キツル程ニ忘レタリトイフサテハ肝ノ為ニコソ具シテキツレ ト思テサラハ返テトリテタヘトイフ安キ事ト云ケレハ返テ山ヘ ユキヌ猿木ニ上テ海中ニヤマナシ身ヲ離テキモナシトイヒテ山ヘ/k5-172r
フカク入ヌ虬ヌケヌケトシテ帰リヌ是ハ獣マテモ狂惑ノ心ノ有事 ヲ経ニ説カレタリ又烏ト鳩ト蛇ト鹿ト山中ニ有テタカヒニ問 フ何事カ苦ナルト烏カ云クウヱ程クルシキ事ナシウエヌレハ目 モクラク心マヨヒテ網ニカカリ命ノウセシ事モワスルト鳩ノ云ク 我ハ婬欲ノ心ノヲコル程ノ苦ミナシムネクルシクホトヲリテタヘ 忍カタシトイフ蛇ノ云ク我ハ瞋恚程ノ苦ナシ腹タチヌレハ身 モヱコカルルトイフ鹿ノイハク我ハモノノヲソロシキ程ノ苦ナシ人 ノヲト弓ノ影モスレハ身ノクタケン事モシラス谷ミネヲ越テ走ト イフ又百足ト山神ト蛇ト知音ニテ山中ニスミケルカ百足山 神ニイハク我ハ百足アレトモ餘リトモ覚ヘス汝チ一ニテハイ カテカタヤスクアルカン九十九ノアシヲツクヘシトイフ一足カイ ハク我ハアシ一ニテヲトリアルクニ不足ナシ汝チカ九十九ノア/k5-172l
シキリテステヨト云蛇ノイハク我ハ一モナク百モナケレトモ腹ヲ モテアルクニ事カケス百モ一モステヨト云フ此事ヲ思ニケニモシ カルヲヤ世ヲワタル人所知荘薗オホキモ人ヲカヘリミヒロク振 舞ヘハアマレリトモ見ヘス百足ノ如シワツカニ一所ヲシル人モ 其分ヲシリテフルマヘハ事カケス一足ノコトシ又無縁ナルモノ モ天運カキリアレハ必スウヱココヱス蛇ノコトシ誠ニ宮モワラヤ モハテシナシトテモカクテモ有ヌヘキモノ也サレハ鶴ノハキモキルヘ カラス鴨ノハキモ続ヘカラストイヘリ此ハヲノヲノ自位ニ住シテ天 然ノ道ヲ守リ愁ミス悦サル心ニテ無為ノ化ヲ行フ事ヲイヘル ナルヘシカヤウノ古事ヲ聞ニハ学生ノ蟻蟎ナトカ問答セサラン/k5-173r