沙石集
巻5第3話(39) 学生の畜類に生まるる事
校訂本文
山1)に二人の学生(がくしやう)ありけり。同法にて、年齢も心操(こころばせ)・振舞ひ、よろづ変らず、学問も一師のもとにて稽古しければ、ことに見解も同じ。何事につけても同じ体なりけるゆゑに、二人、契りていはく、「われら一室の同法たり。よろづ変らず振舞へば、当来の生所(しやうじよ)も同じ報にてこそあらんずらめ。先立つことあらば、生所を必ず告ぐべし」と、よくよく互ひに契りぬ。
一人他界して、夢に告げていはく、「われは野槌(のづち)といふものに生れたり」と言ふ。野槌といふは、常にもなき獣なり。深山の中にまれにありと言へり。形大にして、目鼻手足もなし。ただ口ばかりあるものの、人を取りて食くと言へり。
これは、仏法を一向名利のために学し、勝負・諍論(じやうろん)して、あるいは瞋恚(しんい)を起こし、あるいは怨讎(をんしう)を結び、憍慢(けうまん)・勝他(しようた)などの心にて学すれば、妄執の薄らぐこともなく、行解(ぎやうげ)のおだやかなることもなし。さるままには、口ばかりはさかしけれども、智慧の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかる恐しき者に生れたるにこそ。
およそ、仏法を学するに、結縁を論じ、遠因(をんいん)をいふには、少しきの因縁もつひにむなしからず。「聚沙為仏塔。皆已成仏道。(沙を聚めて仏塔と為す。皆すでに成仏の道なり。)」と言ふがごとし。当時の行儀をかんがへ、順次の生所を言はば、心品にしたがひて、利害あるべし。出離の心ざし、菩提のために学せば、大きに利益あり。名聞の心、利養のために学せば、大きなる損害あり。されば、世間・出世、なすことは同じけれども、善悪は心に分かれたり。
つらつらこのことを案ずるに、仏法をかつて知らず、学せぬ者は言ふにたらず、仏法を学ぶ者につきて、世間・出世者を分かつべし。その本意、真実に仏道を心ざし、解脱を期する心ならば、出世者なり。渡世を心とし、今生を重くして、仏法をもつて名利の価(あたひ)にして、利養・恭敬に貪着せんは世間なり。
たとへば、管絃に呂律(りよりつ)あひ交へ、五音ともに調(しら)ぶれども、一つの調子を本(もと)としてこれを奏する時は、余の四つの音は助(じよ)として、みづから調子の能なし。互ひに主(つかさ)どり、互ひに助けて、あひ並ばず。
かくのごとくの世間者も、仏法をこそ学すれども、名利の媒(なかだち)とすれば、仏法もさながら世間の助となりて、みづからの功能なうして、出離解脱の因にあらず。この時は、仏法すなはち世間となる。しかれば、出世の道人も、いかでか道具・衣食(えじき)の縁、住所・資材の蓄へもなからん。有待(うだい)の依身、縁欠くれば、保ちがたし。下界の報、必ず助けおかるべし。南浮の人身、受けがたし。この機をあひ助けて、道行を成ずべし。
然れば、「生身を助けて、法身の慧命を全くせん」と思はば、世間の治生産業、みな仏法の助けとなりて、道業を成ずべし。昔の道人、あるいは種をまき、畬(あらた)を鋤(す)きしがごとし。その時は、世間すなはち仏法なり。正しくは六根浄の位にこそ。「治生産業、実相に違背せず」と説けども、仏法修行の志まことしくして、五欲の塵労に心を染めず、小欲知足にして、修行の機を助けんは、分(ぶん)に実相にそむかぬ道理などかなからん2)。
例せば、戒門をくはしく論ずれば、「唯仏一人持浄戒」と言ひて、仏のみぞ真の持戒の人なり。また、許して言ふ時は、「百行律儀」とて、わづかに人ばかり殺さぬ不殺生戒、また婬戒を昼ばかり持(たも)ち、不殺生を夜ばかり持ち、十善戒を六十歩のほど持つも、分に持戒と言ふ。なづらへて心得べし。
世間者・出世者のことは、われと思ひより侍りて後、聖教を見るに、文証多く侍り。仁王経にいはく、「菩薩未成仏時、以菩提為煩悩、菩薩成仏時、以煩悩為菩提。(菩薩未だ成仏せざる時は、菩提を以て煩悩となし、菩薩成仏の時は、煩悩を以て菩提となす。)」。守護経いはく、「或有煩悩能与解脱以為因縁。観実体故。或有解脱与煩悩以為因縁。生執着故。(或は煩悩のよく解脱のために以て因縁となるあり。或は解脱のよく煩悩のために以て因縁となるあり。執着を生ずる故に。)」と。この文肝要なり。
意楽(いげう)善なる時、執着なくして道を志せば、煩悩に似たれども、解脱の因縁なり。名利・我相を心とすれば、善事に似て流転の因縁なり。なすことをもて善悪を定むべからす。意楽をもつて昇沈をわきまふべし。これ、随分自己の法門なり。
首楞厳経いはく、「若能転物、即同如来。(若しよく物を転ずれば、すなはち如来に同じ。)」。またいはく、「三科七大本如来蔵。(三科七大もと如来蔵)」。楞伽にいはく、「如来蔵善不善因也。(如来蔵は善不善の因なり。)」。
されば、ものは得もなく失もなし。心に用ゐる時、かれに着し転ぜらるるときは、仮に煩悩ともいひ、転じて利益ある時は菩提と言ふ。まこと3)には煩悩もなく菩提もなし。ただこれ、頭もなく尾もなき、一霊無相のくせものなり。何とかこれを言はんや。されば、名を立つることも方便なり。実証の所には無名無心なり。
翻刻
学生之生畜類事 山ニ二人ノ学生アリケリ同法ニテ年齢モ心操振舞ヨロツカ ハラス学問モ一師ノ下ニテ稽古シケレハ殊ニ見解モ同シ何 事ニ付テモ同ジ体也ケル故ニ二人契テ云ク我等一室ノ同 法タリ万ツカハラス振舞ヘハ当来ノ生所モ同シ報ニテコソア ランスラメ先立ツ事アラハ生所ヲ必告クヘシト能々タカヒニ 契ヌ一人他界シテ夢ニ告テ云ク我ハ野槌ト云者ニ生レタリト/k5-160l
イフ野槌トイフハ常ニモナキ獣ナリ深山之中ニ希ニアリト云 リ形大ニシテ目鼻手足モナシ只口許リアル物ノ人ヲ取テ食ト 云リコレハ仏法ヲ一向名利ノ為ニ学シ勝負諍論シテ或瞋 恚ヲ起シ或ハ怨讎ヲ結ヒ憍慢勝他等ノ心ニテ学スレハ妄執 ノウスラク事モナク行解ノオタヤカナル事モナシサルママニハ口 計ハサカシケレトモ智慧ノ眼モナク信ノ手モナク戒ノ足モナキ ユヘニカカルオソロシキ者ニ生タルニコソ凡ソ仏法ヲ学スルニ結 縁ヲ論シ遠因ヲ云ニハ少シキノ因縁モ終ニムナシカラス聚沙 為仏塔皆已成仏道ト云カ如シ当時ノ行儀ヲ撿エ順次ノ 生所ヲイハハ心品ニ随ヒテ利害有ヘシ出離ノ心サシ菩提ノ タメニ学セハ大ニ利益アリ名聞ノ心利養ノ為ニ学セハ大ナ ル損害アリサレハ世間出世ナス事ハ同シケレトモ善悪ハ心ニ/k5-161r
分レタリ倩ラ此事ヲ案スルニ仏法ヲ曽テ知ス学セヌ者ハ云ニ タラス仏法ヲ学フ者ニ付テ世間出世者ヲ分ツヘシ其本 意真実ニ仏道ヲ心サシ解脱ヲ期スル心ナラハ出世者也渡 世ヲ心トシ今生ヲ重クシテ仏法ヲ以テ名利ノ価ニシテ利養恭 敬ニ貪著センハ世間也タトヘハ管絃ニ呂律相交ヘ五音 トモニシラフレトモ一ノ調子ヲ本トシテ此ヲ奏スル時ハ餘ノ四ノ 音ハ助トシテ自カラ調子ノ能ナシ互ニ主トリ互ニ助テ相ナラハ ス如此世間者モ仏法ヲコソ学スレトモ名利ノ媒トスレハ仏 法モサナカラ世間ノ助トナリテ自ノ功能ナウシテ出離解脱ノ 因ニアラス此時ハ仏法即世間トナル然レハ出世ノ道人モ 争カ道具衣食ノ縁住所資材ノ畜ヘモナカラン有待ノ依身 縁カクレハ保チカタシ下界ノ報必ス助ヲカルヘシ南浮ノ人身/k5-161l
受ケカタシコノ機ヲアヒ助テ道行ヲ成スヘシ然レハ生身ヲタス ケテ法身ノ慧命ヲ全クセント思ハ世間ノ治生産業皆仏法 ノ助ト成テ道業ヲ成ヘシ昔ノ道人或ハ種ヲマキ畬ヲスキシカ 如シ其トキハ世間即仏法也正クハ六根浄ノ位ニコソ治生 産業実相ニ違背セスト説ケトモ仏法修行ノ志シ誠シクシテ 五欲ノ塵労ニ心ヲソメス小欲知足ニシテ修行ノ機ヲタスケンハ 分ニ実相ニソムカヌ道理ナトナカラン例セハ戒門ヲ委ク論ス レハ唯仏一人持浄戒ト云テ仏ノミソ真ノ持戒ノ人ナリ又 ユルシテ云トキハ百行律儀トテワツカニ人計殺サヌ不殺生戒 又婬戒ヲ晝計持チ不殺生ヲ夜ルハカリ持チ十善戒ヲ六十 歩ノ程タモツモ分ニ持戒ト云准ヘテ心ウヘシ世間者出世者 ノ事ハ我ト思ヨリ侍テ後聖教ヲミルニ文証多ク侍リ仁王経/k5-162r
云菩薩未成仏時以菩提為煩悩菩薩成仏時以煩悩為 菩提守護経云或有煩悩能与解脱以為因縁観実体故 或有解脱与煩悩以為因縁生執著故ト此文肝要ナリ 意楽善ナル時執著ナクシテ道ヲ志セハ煩悩ニ似タレトモ解脱 ノ因縁也名利我相ヲ心トスレハ善事ニ似テ流転ノ因縁ナ リ作ス事ヲモテ善悪ヲ定ムヘカラス意楽ヲ以昇沈ヲワキマフ ヘシ是レ随分自己ノ法門也首楞厳経云若能転物即同 如来又云三科七大本如来蔵楞伽云如来蔵善不善 因也サレハモノハ得モナク失モナシ心ニ用ル時彼レニ著シ転 セラルルトキハカリニ煩悩トモイヒ転シテ利益アル時ハ菩提トイフ 寶ニハ煩悩モナク菩提モナシタタコレ頭モナク尾モナキ一霊 無相ノクセモノ也何トカ是ヲイハンヤサレハ名ヲ立ル事モ方/k5-162l
便ナリ実証ノ所ニハ無名無心也/k5-163r