沙石集
巻1第5話(5) 神明、慈悲智慧ある人を貴み給ふ事
校訂本文
春日の大明神の御託宣には、「明慧房1)・解脱房2)をば、わが太郎・次郎と思ふなり」とこそ仰せられけれ。
あるころ、両人、春日の御社3)へ参詣し給ひけるに、春日野の鹿の中に、膝を折りて伏して敬ひ奉りけり。
明慧房上人、渡天のこと、心中ばかり思ひたち給ひけるに、湯浅にて、春日の大明神、御託宣ありて、留め給へり。かの御託宣の日記侍るとぞ承はれ。はるばると離れんことを歎き思し召すよしの仰せありて、御留めありけるこそ、あはれに思ゆれ。「もし思ひ立ち候はば、天竺へ安穏に渡りなんや」と申し給ひければ、「われだに守らば、などか」とこそ、仰せありけれ。その時、上人の手をねぶらせ給ひけるが、一期のほど香ばしかりけるとぞ。
解脱房上人、笠置に般若台と名付けて、閑居の地をしめて、明神を請じ奉り給ひければ、童子の形にて、上人の頸に乗りて、渡らせ給ひけり。さて、御詠ありけり、
われ行かん行きて守らん般若台釈迦の御法のあらんかぎりは
ある時、般若台の道場の虚空に、御音ばかりして、
われを知れ釈迦牟尼仏の世に出でてさやけき月の夜を照らすとは
常に法門なんど仰せられ申し給ひけるとこそ。まことに在世のことを聞く心地して、かたじけなくも、うらやましくも侍るかな。
「光ある者は、光ある者を伴(とも)とす」と言へり。神明は、内には智慧朗(ほが)らかに、外には慈悲妙(たへ)なり。智慧も慈悲もあらば、必ず神明の伴と思し召すべきにや。
書4)にいはく、「火は乾けるにつき、水は潤(うるほ)へるに流る。」。まことに執着(しふぢやく)なうして心乾かば、智慧の火もつきぬべし。情けの潤ひあらば、慈悲の水も流れぬべし。
翻刻
神明慈悲智慧有人貴給事 春日ノ大明神ノ御託宣ニハ明慧房解脱房ヲハ我カ太郎次 郎ト思也トコソオホセラレケレ或時此両人春日ノ御社ヘ参 詣シ給ケルニ春日野ノ鹿ノ中ニ膝ヲ折テフシテ敬ヒ奉ケリ明 慧房上人渡天ノ事心中ハカリ思タチ給ケルニ湯浅ニテ春 日ノ大明神御タクセン有テ留給ヘリ彼御タクセンノ日記侍 トソ承遥々ト離レン事ヲ歎思食由ノ仰有テ御トトメ有ケル コソ哀ニ覚レモシ思タチ候ハハ天竺ヘ安穏ニ渡ナンヤト申給ケ レハ我タニ守ラハナトカトコソ仰有ケレ其時上人ノ手ヲネフラセ 給ケルカ一期ノホトカウハシカリケルトソ解脱房上人笠置ニ/k1-14r
般若台ト名テ閑居ノ地ヲシメテ明神ヲ請シ奉給ケレハ童子 ノ形ニテ上人ノ頸ニノリテ渡ラセ給ケリサテ御詠アリケリ 我ユカンユキテマホラン般若台釈迦ノ御法ノアランカキリハ 或時般若台ノ道場ノ虚空ニ御音ハカリシテ 我ヲシレシヤカ牟尼仏ノ世ニ出テサヤケキ月ノ夜ヲ照トハ 常ニ法門ナント仰ラレ申給ケルトコソ誠ニ在世ノ事ヲ聞心地 シテカタシケナクモ浦山シクモ侍カナ光アル物ハ光アル物ヲ伴トス トイヘリ神明ハ内ニハ智慧ホカラカニ外ニハ慈悲タヘナリ智慧 モ慈悲モアラハカナラス神明ノ伴ト思食ヘキニヤ書云火ハ乾 ケルニツキ水ハウルヲヘルニナカルマコトニシウシヤクナフシテ心カハ カハ智慧ノ火モツキヌヘシナサケノウルホヒアラハ慈悲ノ水モナ カレヌヘシ/k1-14l
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