醒睡笑 巻5 上戸
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校訂本文
俗云はく、「心身の散乱1)は人性に依るべし。強ひて論ぜず。纔(わづ)かに聞く、文殊経2)に云はく、『飲酒することを得ざれども、もし合薬に医士の説く所あらば、多薬に相和して、少酒多薬は用うることを得』と云々。貴しとして許すにや。広大の慈悲なり3)。何を以て衆生入ることを得ん。無上道の善巧も、飲酒の一盃に今はすでに満足なるかな。また道(い)ふを見ずや、事林広記の清談に、昔、儀狄(ぎてき)酒を造りて美なり。これを禹に進るに4)飲みて甘の酒とす。以て祭祀に供すべし。以て賓客に奉ずべし。皆礼の廃れざる所の者なり。詩の謂ふ所の如しは、酒を為(つく)り醴(れい)を為り、以て百礼を治む。又謂ふ、我に旨酒有り、以て嘉賓の心を燕楽 するも皆この物なり。されば、神前の酒台盤には諸天に献ずる三木5)有り。婦人愛して九献と呼び、王侯6)将相は酒を以て治国の策を成す。士農工商おしなべて7)飯後は必ず中酒と謂ひてこれを飲む。傍人云はく、『大過は無益の興行、足らずんば寒からまし。酔はず醒めざるこそ中酒ならめ』と。この砌、大酒の老翁出で来たり『酒を飲は酔ふ為なり。ただ乱酒せよ。唐の李太白8)、「将進酒」と云ふ題にて、『岑天子、丹丘生、与君歌一曲、請君為我聴、鍾鼎玉帛不定貴、但願長酔不願醒。(岑天子、丹丘生、君の与(ため)に一曲を歌はん。請ふ君我が為に聴け。鍾鼎玉帛も貴しとするに足らず。但長酔を願つて醒むるを願はず。)』とはこれならん。佳き酒が朋立(ともだち)よ。もし青州の従事9)無くんば、督郵10)の風味にても足りぬべし。故に東坡11)は、『薄々酒勝茶湯。(薄々たる酒も茶湯に勝れり)』と。また李白も、『白酒初熟山中帰。(白酒初めて熟して山中に帰る。)』と。酔てもまた文章、醒めてもまた文章と謂ふべし」。
翻刻
俗云心身教乱ハ可依人性強テ不論纔聞文殊経ニ云不レドモ 得飲酒スルコトヲ若合薬ニ医士ノ所アラハ説多薬ニ相和少酒多薬ハ得 用フヲ云々貴トシテ許ニヤ広大ノ慈悲ヤ以何衆生得入無上道ノ/n5-29r
善巧モ飲酒一盃ニ今者已満足ナル哉又不見道事林広記ノ 清談ニ昔儀狄造テ酒而美ナリ進ル之於禹二ニ飲テ而甘之酒ト可 以供祭祀ニ可以奉ス賓客ニ皆礼ノ所ノ不廃レ者ナリ如シハ詩所謂 為酒為醴以治百礼ヲ又謂我ニ有旨酒以燕楽嘉賓之 心ヲ皆是ノ物也去レハ神前ノ酒臺盤諸天ニ献スル有三木婦人 愛シテ呼九献ト三侯将相者以酒成治国之策ヲ士農工商 何不別(ヲシナヘテ)飯後ハ必謂テ中酒ト飲之傍人云大過ハ無益ノ興行 不ンハ足寒マシ不酔不ルコソ醒中酒ナラメ此砌大酒老翁出来飲ハ酒 為酔唯乱酒セヨ唐ノ李太白将進酒ト云題ニテ岑天子丹丘/n5-29l
生与ニ君歌一曲ヲ請君為ニ我聴ケ鍾鼎玉帛不足貴ルニ但 願ツテ長酔ヲ不願醒ニ是ラン佳チ酒ガ朋立ヨ若シ無ンハ青州ノ従事督郵(トクユウ) 風味ニテモ可足ヌ故東坡薄々タル酒モ勝レリ茶湯ニ又李白モ白酒初テ熟シテ 山中ニ帰可謂酔テモ亦文章醒亦文章僧曰文殊問経ハ/n5-30r