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序
校訂本文
妙達和尚の入定して蘇りたる記に云はく
天暦五年九月十五日、出羽国、海のつらいつほり、越後国の境、田河の郡(こほり)1)の南の山、龍華寺2)といふ寺に久しくすむ僧あり。名をば妙達(めうたつ)といふ。法師になりて後、粟・稗・麦・大豆・小豆・飯すべて五穀を断ち、後山(あとやま)の麓(ふもと)を出でず、久しくこの寺に住む。久しく法華経を読み奉る。
しかる間に、この僧、はからざるに定(ぢやう)に入りて、七日七夜ありて、蘇りて云はく、「閻王(えんわう)の都3)に召さる。召しに随(したが)ひて詣づ。その道、青き山狭(せば)く重なれり。黄なる砂子(すなご)を踏み過ぐ。七重(しちかさね)ある鉄(くろがね)の垣(かき)あり。わたのごとくにして廻り廻れり。六丈の銅(あかがね)の柱、高く開けたり。むなしきちまたを一人行く。
閻魔王の宮に候ひて、すなはち高座につきぬ。その時、閻魔王ののたまはく、「なんぢは煩悩なし。しかのみならず、二生の沙(いさご)に浅からず。いはんや法師になりて後、他事なく法華経を読み奉る。すみやかに返へし、帰りて法華経いま千部読み奉れ」とのたまふ。
その時に妙達、申して申さく、「父母(ぶも)の生きて侍らん所と、日本国に死に侍りにし人々の生まれたらむ所々を見知りて帰らむ」と申す時に、閻魔王のたまはく、「はやく見るべし」とのたまふ。
翻刻
或本云 妙達和尚ノ入定シテヨミカヘリタル記云 天暦五年九月十五日出羽国ウミノツライツホリ越後国ノサカヒ 田河ノ郡ノ南ノ山龍花寺トイフ寺ニ久クスム僧アリ名ヲハ 妙達トイフ法師ニナリテ後粟稗麦大豆小豆飯スヘテ五 穀ヲタチアト山ノフモトヲイテス久ク此寺ニスム久ク法花経ヲ ヨミタテマツル而間ニコノ僧ハカラサルニ定ニ入テ七日七夜アリテヨミ カヘリテ云閻王ノ宮コニメサル召ニ随テ詣ヅ其道青キ山セハク/n2-50r・e2-47r
カサナレリ黄ナルスナコヲフミスク七重(カサネ)アル鉄ノカキアリワタノコト クニシテメクリメクレリ六丈ノアカカネノ柱タカクヒラケタリムナシキ チマタヲヒトリユク閻魔王ノ宮ニ候テ即高座ニツキヌソノ時閻魔 王ノ乃給ハク汝ハ煩悩ナシ加之二生ノイサコニアサカラス況ヤ法師 ニ成テノチ他事ナク法花経ヲヨミタテマツルスミヤカニ返ヘシカヘリテ 法花経イマ千部ヨミタテマツレト乃給フソノ時ニ妙達申テ申サク 父母ノ生て侍らん所ト日本国ニ死侍ニシ人々ノ生タラム所々ヲ ミシリテ帰ラムト申時ニ閻魔王ノ給ハクハヤクミルヘシトノ給汝カ/n2-50l・e2-47l
text/myotatsu/ka_myotatsu00.txt · 最終更新: 2024/10/23 18:54 by Satoshi Nakagawa