唐鏡 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる
3 魏 曹芳(1 魏 即位・呉 建初寺の建立 孫権崩御)
校訂本文
斉王1)、諱(いみな)は芳、字(あざな)は蘭卿(らんけい)、明帝2)まことの御子おはしまさず。この王を養ひ給ふ。誰が子といふこと秘せられて、人しれず位に即き給ひて、後大将軍曹爽、大尉司馬宣王3)、政を助く。正始元年と改元す。
蜀の劉禅、延熙三年なり。
呉の孫権、赤烏三年なり。
正始二年
呉の孫権赤烏四年なり。外国の沙門(しやもん)康僧会(かうそうゑ)、江表(かうへう)に至りて、像を設けて道を行ふ。呉人妖異とす。権4)、僧会を召して問ひ給ふ。「仏はいかなる霊瑞(れいずい)かある」。僧会申さく、「仏は霊跡を晦(くら)くして、遺骨の舎利(しやり)を現ずべし。権、また曰く。「いづくにあるぞ」。僧会申さく、「祈り求めば獲つべし」。また曰く、「もし舎利を得たらば、寺を建つべし」。
三七日、まことをいたして求め請ふに、瓶の中に現れ給へり。光、宮殿を照らす。権、瓶をとりて銅盤に移すに、舎利降りて、盤破れぬ。権、大いに驚異しぬ。僧会、前(すす)みて申さく、「仏の霊骨不朽にして、劫火(ごふくわ)にも焼けず、権(けん)・砧(ちん)にも砕けず。力者撃つにも破れず」。ここに火をもち焼くに、光増して大蓮華となれり。
権、大いに信を起こして寺を建て、建初寺(けんそじ)と名付く。住所の地をは仏陀里といへり。漢の永平十年に仏法初めて渡りて5)、今赤烏四年に至るまで一百七十五年なり。
嘉平四年夏五月に武庫の屋上、魚二つ見ゆ。
蜀の劉禅、延熙十五年なり。
呉の孫権、太元二年夏四月、権薨じぬ。年七十在、位四十一年なり。諡(おくりな)を太皇帝と申す。その子6)、諱(いみな)は亮、字は子明(しめい)、位に即き給ふ。建興と改元す。
翻刻
斉王諱ハ芳字ハ蘭卿(ランケイ)明帝誠ノ御子オハシマサス此王ヲ養玉フ 誰子ト云事秘セラレテ人不知位ニ即給テ後大将軍曹爽 大尉司馬宣王政ヲタスク正始元年ト改元ス 蜀劉禅延熙三年也 呉孫権赤烏三年也/s155l・m273
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/155?ln=ja
正始二年 呉孫権赤烏四年也外国ノ沙門康僧会(カウソウヱ)江表(カウヘウ)ニ 至テ像ヲ設テ道ヲ行フ呉人妖異トス権僧会ヲ召テ問玉フ仏ハ 何ナル霊瑞カアル僧会申サク仏ハ霊跡ヲ晦(クラ)クシテ遺骨ノ舎利ヲ 現ヘシ権又曰何クニアルソ僧会申サク祈求ハ獲ツヘシ 又曰若舎利ヲ得タラハ寺ヲ建ヘシ三七日誠ヲ至シテ求 請ニ瓶ノ中ニ現玉ヘリ光宮殿ヲ照ス権瓶ヲトリテ銅盤ニウツスニ 舎利降リテ盤破レヌ権大ニ驚異ヌ僧会前テ申サク仏ノ霊骨不 朽ニシテ劫火ニモヤケス権砧ニモクタケス力者撃ニモヤフレス 爰ニ火ヲモチヤクニ光升テ大蓮花トナレリ権大ニ信ヲ起シテ寺ヲ/s156r・m274
立建初(ケンソ)寺トナツク住所ノ地ヲハ仏陀里トイヘリ漢永 平十年ニ仏法初渡テ今赤烏四年ニ至マテ一百 七十五年也 嘉平四年夏五月ニ武庫ノ屋上魚二見ユ 蜀劉禅延熙十五年也 呉孫権太元二年夏四月権薨ヌ年七十在位 四十一年也諡ヲ太皇帝ト申ス其子諱ハ亮字ハ子明(シメイ) 位ニ即給フ建興ト改元ス/s156l・m275