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text:karakagami:m_karakagami4-21

唐鏡 第四 漢武帝より更始にいたる

21 漢 更始帝・劉盆子

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王莽の末になりて、天下に旱蝗(かんくわう)ありて、黄金一斤に粟一斛(と)をぞ代へ侍りし1)。劉玄、字(あざな)は聖公、景帝2)の七代の孫なり。

王莽の末に、南方飢饉はなはだし。野沢(のざは)に入りて、蔦茈3)を採りて食ふ。兵革(へいかく)、競(きほ)ひ動き、劉玄行きて、平林の軍(いくさ)4)にしたがへり。

王莽が地皇四暦春二月に、諸将、共に議して、更始(かうし)5)を立てて天子とす。清水(せいすい)の沙(いさご)の中に壇をまうけて、群臣を朝ぜしむる。劉玄、もとより嬬弱6)にして、羞愧(しうき)7)して汗を流し。手を上げてもの言ふことあたはず。すなはち暦号を更始元暦といふ。

二暦に更始(カウシ)長楽宮に居て前殿へのぼる時、郎吏(らうり)ついでおもて庭中に行列8)す。更始、羞(は)ぢて伏し、蓆(むしろ)を割きて、あへて諸将を見ず。日夜に婦人と酒を飲み酔ひ臥して、政(まつりごと)をきかず。官爵を授くる者は、商人(あきびと)・膳夫(ぜんふ)ていのものにてぞありける。

三暦春正月、平陵人9)、前(さき)の孺子嬰(じゆしえい)を立てて天子とす。更始、兵をつかはして、これを斬りつ。

夏六月、赤眉(せきび)10)、劉盆子(りうぼんし)を立てて天子とす。赤眉といふは、王莽の末に樊崇(はんそう)などいふ者兵をおこすに、その衆の王莽が軍(いくさ)と乱れあらんことを怖(お)ぢて11)、みなその眉を赤くするなり。劉盆子といふは、高祖12)の孫、景王章13)が後なり。

秋九月に、赤眉、城に入る。更始、単騎して走り出づ。長楽宮に参りて、璽綬(じじゆ)を盆子に奉る。赤眉、更始を庭にすゑて殺さんとするを、劉恭などいふ人、あはれみて申し免されぬ。長沙王とぞなりにける。

つひにくびられて死ぬ。棭庭(えきてい)の中に、宮女なほ数百人14)とどまれり。更始敗れて後、殿の内に幽閉せられしかば、庭中の蘆(あし)の根を掘り、池の魚を捕へてぞ命を生きける。劉盆子、あはれみて米(よね)を与へしむ。失せて後は、みな餓死して出でずとぞ聞き侍りし。

赤眉、長安を焼き払ひて、暴虐はなはだしかりしかば、飢餓して15)あひ食ひけり。長安墟地(きよち)となりて、行き交ふ人もまれなるほどなり。山陵ども、みな掘り開けられぬ。わづかに覇陵・杜陵ばかりぞまたかりける。

盆子、帝となりて、暦号を建成元暦とす。時に暦十五なり。建成三暦に、光武16)に降(くだ)りぬ。光武、趙王郎中になし賜びけり。後には病によりて盲(めしひ)にけり。

王莽十八暦、劉玄一暦、合はせて十九暦の間、位を盗めり。

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とそ時の人申ける王莽の末になりて天下に旱蝗(カンクワウ)
ありて黄金一斤に粟一斛をそかゑら(イナシ)侍し劉玄(リウケン)字(アサナ)は聖
公(コウ)景帝(ケイテイ)の七代の孫也王莽の末に南方飢饉(キキン)はなはたし
野沢(ノサハ)に入て蔦茈(クワイ)をとりて食ふ兵革(ヘイカク)競(キヲイ)動(ウコ)き劉
玄行て平林のいくさにしたかへり王莽か地皇四暦
春二月に諸将共に議して更始をたてて天子とす
清水の沙(イサコ)の中に壇をまうけて群臣を朝せしむ
る劉玄もとより嬬弱(タンシヤク)にして羞愧(ハチハチ)て汗をなか
し手おあけてもの云ことあたはすすなはち暦/s119r・m216
号を更始元暦と云二暦に更始(カウシ)長楽宮に居て前
殿へのほる時郎吏(ラウリ)次(ツイテ)おもて庭中に行烈す更始
羞てふし蓆(ムシロ)を割(サキ)てあへて諸将を見す日夜に婦(フ)
人と酒をのみ酔ふして政をきかす官爵(クワンシヤク)を授(サツクル)ものは
あき人膳夫ていのものにてそありける三暦春正
月平陵(ヘイリヤウ)人前(サキ)の孺子嬰(シユシヱイ)をたてて天子とす更始
兵をつかはしてこれを斬(キリ)つ夏六月赤眉劉盆(リウホム)
子(シ)をたてて天子とす赤眉と云は王莽のすへに樊崇(ハンソウ)
なと云もの兵ををこすにその衆の王莽かいく
さとみたれあらんことを(をイ)ちてみなその眉を/s119l・m217

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/119?ln=ja

あかくするなり劉盆子(リウホムシ)と云は高祖の孫景王章(ケイワウシヤウ)か
後なり穐九月に赤眉城にいる更始(カウシ)単騎(タンキ)して
はしりいつ長楽宮にまいりて璽綬(シシウ)を盆子(ホンシ)に
たてまつる赤眉(セキヒ)更(カウ)始を庭にすへてころさんとす
るを劉恭(リウキヤウ)(子イ)なと云人あはれみて申ゆるされぬ長沙(チヤウサ)
王(ワウ)とそ成にける遂にくひられて死ぬ棭庭(ヱキテイ)の中
に宮女なを数百十(イナシ)人ととまれり更始やふれて
のち殿の内に幽閇(イウヘイ)せられしかは庭中の蘆(アシ)の
根をほり池の魚をとらへてそいのちをいきける
劉盆子(リウホンシ)あはれみて米(ヨネ)をあたへしむうせて後は/s120r・m218
みな餓死(カシ)していてすとそきき侍し赤眉長安を
焼(ヤキ)はらひて暴虐(ホウキヤク)はなはたしかりしかは飢(うへ)餓(うへ)て相
食けり長安墟地(キヨチ)となりてゆきかふ人もまれなる
ほとなり山陵(サンレウ)ともみなほりあけられぬわつ
かに覇陵杜陵はかりそまたかりける盆子(ホンシ)帝と
なりて暦号を建成(ケンセイ)元暦とす時に暦十五也
建成(ケンセイ)三暦に光武に降(クタリ)ぬ光武趙王郎中(チヤウワウラウチウ)にな
したひけり後には病によりて目しひに
けり王莽十八暦劉玄一暦あはせて十九暦の
あひた位をぬすめり/s120l・m219

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/120?ln=ja

1)
「代へ侍りし」は底本「かゑら侍し」。底本の異本注記により訂正。
2)
劉啓
3)
底本「クワイ」と読み仮名。
4)
平林軍
5)
劉玄・更始帝
6)
底本「タンシヤク」と読み仮名。
7)
底本「ハチハチ」と読み仮名。
8)
底本表記「行烈」。
9)
方望
10)
赤眉軍
11)
「乱れあらんことを怖ぢて」は底本「みたれあらんことをちて」。底本の異本注記により訂正。
12)
劉邦
13)
劉章
14)
「数百人」は底本「数百十人」。底本の異本注記により訂正。
15)
底本「飢」と「餓」にそれぞれ「ウヘ」と読み仮名。
16)
光武帝・劉秀
text/karakagami/m_karakagami4-21.txt · 最終更新: 2023/03/05 17:55 by Satoshi Nakagawa