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text:karakagami:m_karakagami3-04

唐鏡 第三 漢高祖より景帝にいたる

4 漢 高祖(4 垓下の戦い)

校訂本文

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高祖1)かたく項羽を攻むるほどに、項羽が方、力尽き兵も少なくなりて、高祖の軍(いくさ)あまた項羽を囲みて、軍呼(いくさよ)ばひするほどに、項羽これを聞きて、「今は限りの酒盛りせむ」とて、したひつる者どもを集めて、幕の中にて酒を飲む。

虞(ぐ)といふ美女を愛して、いかなる城の中にもあひ具したり。また、常に乗る駿馬あり。名をば騅(すい)といふ。その座にて、項羽語りていはく、「力は山を抜き、気は世にかぶらしめたり。時利あらずして威勢廃る2)。時利あらずして3)騅も逝(ゆ)かず。逝(ゆ)かず、いかかすべき。虞、虞、なんぢをもいかがする」とて、ものあはれなる気色(けしき)なり。愛女、助音してともに泣く。

夜のあけぼのなれば、ものあはれ4)にて、項羽たけき武士(もののふ)なれども、涙におぼれぬ。まして美女袖も絞りあへず。その座に居あひたる武士ども、目もあてられす、5)うつぶして見上ぐることなし。

項羽、もとより猛き心なれば、万(よろづ)を思ひ捨てて、馬に乗りて出でぬ。八百騎ばかりやあひ従ひたりけん。高祖の軍(いくさ)の囲みをうち破りて馳せ出づるに、とどむる者なし。

高祖、五千騎の軍(いくさ)にて、これを追ひ給ふに、人の心みな替はりて、項羽が軍、にはかにみな6)逃げ失せて、わづかに百余人になりて、いづちともなく行くほどに、陰陵(いんりやう)といふ所にて、路にまどひぬ。

田翁(でんをう)に会ひつつ路を問ふ7)に、落軍(おちいくさ)なれば、その翁もあざむきて、「左ざまへ8)わせ」と言ふに、大きなる沢の、路ものびがたきに落ち入りぬ。かく滞るほどに、追ふ軍近付きぬ。

項羽、なほわづかに逃ぐるほどに、東城といふ所に、百余人の者、またみな遁げ失せて、わづかに二十八騎ぞありける。項羽が思はく、「わがありさま、今はいふかひなし。追ふ軍(いくさ)数千人なり。いかにもかなふまじ」と思ひ、その二十八騎の軍に語りて曰く、「われ兵をおこして三年になりぬ。七十余度の合戦にあたるものなかりき9)。人に逃げたること一度も覚えず。今日これほどになりぬるは、天のわれを亡ぼすなり。戦ひの過(とが)にあらず。逃げても何かはせむ。今日の手のきはの戦ひして、なんぢらに見せて死なむ」と言ひて、その二十八騎を四手にわかちて、大いに叫び呼ばひて、高祖の軍(いくさ)に馳せ向かふに、その兵とも猛く荒けなきを見て、あたふべくも覚ええぬば、みな道をあけて出でつ10)

項羽、つひに逃げて、雁江といふ所に至りぬ。その亭の長たる者、船をまうけていはく、「この河の東、狭(せば)しといふとも、千里ばかりなり。人の数も数十万人なり。君行きなば、何ぞ王たらざらん。すみやかに船に乗りて渡り給ふべし。この渡には船持ちたる人わればかりなり。高祖の軍(いくさ)来たるといふとも、渡るべからず」と言ふに、項羽、笑ひていはく、「天のわれを亡ぼすなり。われ渡りても何かはせむ。われ、昔かの所の者ども八千人と西へ行きて戦(いくさ)をせし時、天下みななびきたりき。今一人もなくして帰りたらむに、旧里(ふるさと)の者ども、昔を哀れみてたとひ王とあふがむといふとも、われ何の面目ありてか、彼らにも見えん。彼、たとひ忍びて言はずとも、われあに恥ぢざらんや。われこの馬に乗りて戦(いくさ)をせし間、一日に千里をも行きき。われいふかひなくなりて後、敵(かたき)のこの馬に乗らむ、心憂きことなれば、『殺さばや』と思へども、目の前に失なはむも堪ふべき心地もせず。ただなんぢに取らせん」と言ひて取らせつ。

わづかに二十八騎従ひたる者どもに、別れを惜しみていはく、「これほどまで付きたる心ざしは去りがたけれども、われいふかひなくなりなん後に、なんぢら人の手にかからんも口惜しきことなり。これより長く、いかなる人にも走り付きて、命(いのち)を逃れて世にあれ」と言ひて、つひに別れぬ。

項羽、徒歩(かち)にて打物(うちもの)ばかりを取りて、追ふ兵の中に走り入る。数百人をうち殺しつ。その中に呂馬童(りよばどう)といふ者をさして曰く、「われ聞く11)、わが頸(くび)を切りたらん者には、千邑万戸(せんいうばんこ)を取らせむといふなり。なんぢはわが故人なり。われ、なんぢに賞を与ふべし12)と言ひて、みづから頸をはねつ。

呂馬童は項羽が故人にてありければ、てごみにしがたく思ひて、王翳(わうえい)といふ者に、「かく」と言へば、王翳そばより出でて、首を取りつ。残りの者ども、争ひてえだえだ13)を取る人、多くひまなくて、かたみに同じ上にのぼるも知らざりけり。

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翻刻

ひけんその事をととめつ高祖かたく項羽をせむるほと
に項羽か方(カタ)力(チカラ)つき兵もすくなくなりて高祖
のいくさあまた項羽をかこみていくさよはひする
ほとに項羽これをききて今はかきりのさかも
りせむとてしたひつるものともをあつめて幕の中
にて酒をのむ虞(グ)と云美女を愛していかなる城の
中にもあひくしたり又つねにのる駿馬あり名をは/s70l・m125

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/70

騅と云その座にて項羽かたりて云く力は山をぬき気
は世にかふらしめたり時利あらすして威勢廃(スタル/ハイ)
〃〃〃騅(スイ)もゆかすゆかすいかかすへき虞々なむちを
もいかかするとて物あはれなるけしき也愛女助
音してともになく夜のあけほのなれは(イニ物)あはれ
にて項羽たけきもののふなれとも涙におほれぬまし
て美女袖もしほりあへすその座に居あひたる
武士とも目もあてられす(イ皆飢)うつふしてみあくる
事なし項羽もとよりたけきこころなれは
万をおもひすてて馬にのりて出ぬ八百騎斗/s71r・m126
やあひしたかひたりけん高祖のいくさのかこみを
うちやふりてはせいつるにととむるものなし高祖
五千騎のいくさにてこれをおひ給に人の心みな替て
項羽かいくさにわかに(イ皆)にけうせてわつかに百余人に成
ていつちともなくゆくほとに陰陵(インリヤウ)と云所にて路に
まとひぬ田翁(テンヲウ)にあひつつ路をとふ(イニホトニ)におちいくさなれは
その翁もあさむきて左さまへ(イニに)わせと云に大なる
沢(サハ)の路ものひかたきにおちいりぬかくととこほる
ほとにおふいくさちかつきぬ項羽猶わつかににくる
ほとに東城と云所に百餘人のもの又みな遁失て/s71l・m127

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/71

わつかに廿八騎そありける項羽かおもはく我有
様今はいふかひなし追いくさ数千人也いかにも
かなふましとおもひその廿八騎のいくさにかたりて
曰くわれ兵をおこして三年になりぬ七十餘度
の合戦にあたるものなかりき(イナシ)人ににけたる事一
度もおほえす今日これほとになりぬるは
天のわれをほろほす也たたかひのとかにあらす
にけてもなにかはせむ今日のてのきはのたたかひ
して汝等にみせて死なむといひてその廿八騎を
四てにわかちて大にさけひよはひて高祖のいくさ/s72r・m128
にはせむかふに其兵ともたけくあらけなきを
みてあたふへくもおほえぬは(イ皆道ヲアケテ出ツ)項羽遂ににけて
雁江と云所に至りぬその亭の長たるもの船を
まうけていはくこの河の東せはしと云とも千里斗
なり人の数も数十万人也君ゆきなはなむそ王た
らさらんすみやかに船に乗てわたり給へしこの
渡には船もちたる人われはかりなり高祖のいく
さ来たると云共わたるへからすと云に項羽わら
ひて云く天のわれをほろほす也われわたりても
なにかはせむ我むかしかの所のものとも八千人と/s72l・m129

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/72

西へゆきていくさをせし時天下みななひきたり
き今一人もなくしてかへり(イニワ)たらむに旧(フル)里のもの
ともむかしをあはれみてたとひ王とあふかむと云共
われなにの面目ありてかかれらにもみえんかれた
とひ忍ていはすとも我あにはちさらんやわれ此馬
にのりていくさをせしあいた一日に千里をもゆき
き我いふかひなくなりてのちかたきの此馬にの
らむ心うき事なれはころさはやとおもへとも目の
前にうしなはむもたふへきここちもせすたたなん
ちにとらせんといひてとらせつわつかに廿八騎した/s73r・m130
かひたるものともにわかれををしみていはくこれほ
とまてつきたる心さしはさりかたけれともわれ
いふかひなくなりなんのちに汝等人のてにかからんも
くちをしき事也これよりなかくいかなる人にもはし
りつきていのちをのかれて世にあれといひて遂に別
ぬ項羽かちにてうちものはかりを取てをふ兵の中
に走入る数百人をうちころしつその中に呂馬童(リヨハドウ)と
いふものをさして曰く我きて(イ聞)わか頸をきりたらん
ものには千邑(イウ)万戸(ハムコ)をとらせむと云也汝はわか
故人也我汝に賞(シヤウヲ)あたらむ(イ与ヘシ)といひてみつから頸(クビ)/s73l・m131

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/73

をはねつ呂馬童は項羽か故人にてありけれは
てこみにしかたくおもひて王翳と云ものにかくと
いへは王翳そはよりいてて首をとりつのこりのも
のともあらそひてみ(イニゑ)たみたをとる人おほくひまなく
てかたみにおなし上にのほるもしらさりけり/s74r・m132

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/74

1)
劉邦
2)
底本「廃」に「スタル/ハイ」
3)
「時利あらずして」は底本三文字の踊り字。
4)
「ものあはれ」は底本「もの」なし。底本の異本注記により補う。
5)
底本「皆飢」と異本注記。
6)
底本「みな」なし。底本の異本注記により補う。
7)
底本「ホトニ」と異本注記。
8)
底本「に」と異本注記。
9)
底本、「あたるものなかりき」に「ナシ」と異本注記。
10)
底本「みな道をあけて出でつ」なし。底本の異本注記により補う。
11)
「聞く」は底本「きて」。底本の異本注記により訂正。
12)
「与ふべし」は底本「あたらむ」。底本の異本注記により訂正。
13)
「えだえだ」は底本「みたみた」。底本の異本注記により訂正。
text/karakagami/m_karakagami3-04.txt · 最終更新: 2023/01/10 17:44 by Satoshi Nakagawa