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text:karakagami:m_karakagami2-23

唐鏡 第二 周の始めより秦にいたる

23 呉王僚・闔閭・夫差 越王勾践

校訂本文

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呉王僚(ごわうれい)は王餘昧1)が子なり。王餘昧が長兄諸樊(しよはん)が子に、公子光といふ人あり。嫡々にて、「われ王たるべし」と思ひて王僚を殺さんと思へり。勇士(ようし)専諸(せんしよ)を養ひて、隙を求む。王僚の十三年四月に、公子光2)、甲士(かし)を窟室(くつしつ)に伏せおきて、王僚に謁す。

王僚、兵を集めて、道に陳(つら)ぬ。王の宮より公子光の家にいたるまで、門階戸席に満ち、満てるものみな王僚の親しき者なり。王を夾(はさ)みて、長鈹3)を持てり。公子光、佯(いつは)つて、足を疾(や)むとて窟室に入りて、専諸(せんしよ)をして匕首(ひしゆ)を炙(あぶ)れる魚の中に隠しおきて、食を奉る間、匕首をもて王僚を刺すに、鈹(ほこ)胸に通りて死ぬ。

公子光代りて立ちて王となる。呉王闔廬(こうりよ)4)といふ。闔廬十五年に越王勾践(こうせん)を伐(う)つに、呉の帥(いくさ)敗れて、闔廬が指を傷(やぶ)りて軍却(しりぞ)く。呉王、傷を病みて死ぬとて、太子夫差に謂ひて曰く、「勾践が汝の父を殺せるを忘るることなかれ。三年を出でじ」とぞ対(こた)へける。

夫差、王となりて、越を報ぜんとのみ思へり。越王勾践は甲兵五千をもて会稽に棲(す)めり。呉王夫差、二十三年に越王勾践がために亡ぼされぬ。これは勾践が臣、范蠡(はんれい)が力なり。

呉飢ゑて粟(ぞく)を越に請ふに、范蠡が計(はかりごと)にて、粟十万石を蒸して送れり。呉よろこびて、飢をたすくるのみにあらず。耕作するに、蒸したる粟なるゆゑに、呉いよいよ飢ゑて、つひに亡ぼされぬ。「呉の強大夫差を以て亡び、越の会稽に棲みし勾践を以て覇(は)たり)」といへる。国の大小によらず。軍は諫めによるべきなり。

「会稽の恥を雪(きよ)む」といへるは、勾践が捕へられて、あさましきことどものありしに、いま呉王夫差を殺すことを申すなり。

勾践覇王となりて、范蠡が相国となりしかども、「大名の下には久しく居(を)るべからず」とて、扁舟(へんしう)に棹(さを)さして、海5)に浮びて、陶朱公(たうしゆこう)と称す。父子治産して、産をいたすこと数千万なり。勾践は銅をして范蠡が貌(すがた)を鋳て、朝夕に拝謁せられける。この范蠡は太白星の精なり。黄帝の時は風后といひ、周の時は老子といひ、越にては范蠡と称せらる。

呉王夫差の臣に伍子胥(ごししよ)といふ者あり。人となり剛戻(がうれい)なり。夫差、太宰(たいさい)嚭(ひ)が讒言(ざんげん)を信じて子胥を殺さるるとき、「わが眼を抉(くじ)りて、呉の東門の上に着(お)け。越の呉を滅ぼさんを見む」とて、自剄(じけい)しぬ。夫差、亡ぼさるる時、思ひあはせけん。

この子胥、呉の楚を滅ぼしし時、楚の平王の墓を堀りて、その尸(かばね)を出だして、三百度まて鞭(むちうち)しこそ、はなはだしかりしか。その時申包胥(しんほうしよ)といふ人の子胥に申しけるは、「汝はもと平王の臣なり。主君をあだなりと思ひて、死人を戮(りく)すること、道の極まれるなり。『人衆(おほ)き時は天に勝つ。天定りぬる時はまたよく人を破る』といふことは知らずや」。子胥は、「日暮れて塗(みち)遠し。かるがゆゑに倒行(たうかう)して逆馳(げきし)す」とぞ答へける。

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あてて二十一年の命を延たり呉王僚(コワウレイ)は王餘昧(ハツ)か子なり王餘昧か
長兄諸樊か子に公子光と云人あり嫡々にて我れ王たるへ
しと思て王僚を殺さんとおもへり勇士(ヨウシ)専諸(センシヨ)を養て
隟をもとむ王僚十三年四月に公子光(イナシ)甲士(カシ)を窟室(クツシツ)に
伏(フセ)おきて王僚に謁す王僚兵をあつめて道に陳(ツラ)ぬ王の
宮より公子光の家にいたるまて門階(モンカイ)戸席(セキ)にみちみてる
もの皆王僚の親しきもの也王を夾(ハサミ)て長鈹(ナカキホコ)を持(モテ)り公子
光佯(イツハツ)て足を疾(ヤム)とて窟室(クツシツ)に入て専諸をして匕(イナシ)首(ヒシユ)を
炙れる魚の中にかくしおきて食をたてまつるあひた/s47l・m85

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/47

匕(イナシ)首をもて王僚を刺(サス)に鈹(ホコ)胸(ムネ)にとをりて死ぬ公子光かはり
て立て王となる呉王闔盧(コワウカウリヨ)といふ闔盧十五年に越(エツ)王勾践(コウセン)
を伐(ウツ)に呉の帥(イクサ)敗(ヤフレ)て闔盧か指(ユヒ)を傷(ヤフリ)て軍却(シリソク)呉王傷(キス)を病(ヤミ)
て死ぬとて太子夫差(フサ)に謂て曰く勾践か汝父を殺せるを忘
るることなかれ三年をいてしとそ対(コタヘ)ける夫差王となりて
越を報せんとのみ思へり越王勾践は甲兵(ヘイ)五千をもて会稽
に棲(スメ)り呉王夫差二十三年に越王勾践かためにほろほされ
ぬこれは勾践か臣范蠡(ハンレイ)か力なり呉飢て粟(ソク)を越に請(コウ)
に范蠡か計(ハカリコト)にて粟十万石を蒸(ムシ)て送れり呉よろこ
ひて飢をたすくるのみにあらす耕作するに蒸たる粟/s48r・m86
なるゆへに呉いよいよ飢て遂にほろほされぬ呉強大(キヤウタイ)夫差(フサ)
以(モテ)亡(ホロヒ)越(ノ)棲(スミシ)会稽(クワイケイニ)勾践以覇(ハタリ)といへる国の大小によらす軍は
諫によるへき也会稽の恥を雪(キヨム)といへるは勾践かとらへられて
あさましきこととものありしにいま呉王夫差を殺こと
を申也勾践覇王(ハワウ)となりて范蠡か相国となりしかとも
大名の下には久(ヒサシク)居(ヲル)へからすとて扁舟(ヘンシウ)に棹(サヲサシ)て海(カイ)に浮て
陶朱公(タウシユコウ)と称す父子治産して産をいたすこと数千万なり
勾践は銅を(イシテ)范蠡か皃を鋳て朝夕に拝謁せ
られけるこの范蠡は太白星の精なり黄帝の時は風后
といひ周時は老子といひ越にては范蠡と称せらる/s48l・m87

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/48

呉王夫差の臣に伍子胥(コシシヨ)といふものありひととなり㓻戻(カウレイ)也
夫差大宰(ダイサイ)嚭(ヒ)か讒言を信して子胥をころさるるとき吾眼
を抉(クシリ)て呉の東門の上に着(ヲケ)越の呉を滅(ホロホ)さんをみむとて
自剄(シケイ)しぬ夫差ほろほさるる時おもひあはせけんこの子胥
呉の楚を滅(ホロホシ)し時楚の平王の墓を堀て其尸(カハネ)をいたして
三百度まて鞭(ウチ)しこそはなはたしかりしか其時申包胥(シンホウシヨ)
といふ人の子胥に申けるは汝はもと平王の臣なり主君をあ
たなりと思て死人を戮(リク)すること道の極まれる也人衆(ヲホキ)
ときは天に勝つ天定ぬる時は又よく人を破といふことはし
らすや子胥は日暮て塗(ミチ)遠しかるかゆへに倒行(タウカウ)して逆馳(ケキシ)/s49r・m88
すとそ答ける/s49l・m89

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/49

1)
余昧。餘昧表記が正しい。「よまい」と読むが底本「昧」に「ハツ」と読み仮名。
2)
底本「光」に「ナシ」と異本注記。
3)
底本「ナカキホコ」と注。
4)
闔閭
5)
底本「カイ」と読み仮名。
text/karakagami/m_karakagami2-23.txt · 最終更新: 2022/12/16 22:42 by Satoshi Nakagawa