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text:karakagami:m_karakagami2-20

唐鏡 第二 周の始めより秦にいたる

20 斉 景公

校訂本文

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斉の景公の御時、晋の国、燕の国より境を侵して、斉の軍の破しを、景公深く愁へ給ふ。晏嬰といふ人1)、武勇(ぶよう)の人を参らす。名をば穣苴(じやうしよ)2)とぞいひし。晏嬰(あんえい)の申しけるは、「この人、文はよく衆をつけ、武はよく敵を威(おど)す。願はくは3)試(こころみ)給へ」と申すに、景公、これを召して、ともに兵のことを語りて、大きに喜び給ひて、将軍になし給ふ。

兵に将として燕晋の師を防ぐべきよし、仰せらる。穣苴の申さく、「臣もとより卑賤なれば、君、櫂(ぬきて)賜へども、士卒いまだつかず、百姓も信ぜじ。『人、微(び)なれば、権、軽(かろ)し』と言へり。願はくは、君の寵臣、国の中の尊(たと)き人を賜はりて、軍を監(かん)ぜしめん」と申す。景公、「いはれあり」とて、荘賈(さうか)といふ人をつかはす。

穣苴、戦(いくさ)に行く時に、荘賈と約束して、「明日の日中に軍門に会すべし」と契りつ。穣苴はすなはち馳せて軍門に至りつつ、表を立ち漏(ろ)を下して荘賈を待つ。荘賈、もとよりおこり貴き人なり。親戚左右、送り養ひなどしければ、日中まで至らず。穣苴、表を倒れ漏を決して、一人入てり軍を行ずるに、日暮れて荘賈至れり。穣苴がいはく、「何ぞ期に遅れたるや。荘賈、謝(しや)していはく、「大夫親戚送りつるほどに、留まりつ」と言ふ。穣苴がいはく、「将の命(めい)を受くる日、その家を忘れ、軍に臨(のぞ)みて約束をする時、その親を忘る。桴皷(ふこ)の急なるを聞きて、その身を忘る。今、敵の国深く侵して、郡(くに)の間騒動すれば、君寝(い)ね給ふに席を安ぜず。食し給ふに、味を甘(あま)ぜず。百姓の命なんぢにかかれば、何ぞ相送るや」と言ふ。

すなはち軍正を召して、問ひていはく、「軍法に期(き)して後れたる者をば、いかがする」。答へて申さく、「斬(ざん)に当す」と言ふ。荘賈、怖(お)ぢて使(つかひ)を景公に参らせて、救ひを乞ふ。その使、いまだ帰らざるほどに、荘賈を斬りて、三軍に侚(とな)へしかば、三軍の人々、みな震ひ怖ぢつつ、しばらくして景公、使をつかはして荘賈を許し給ふ。穣苴がいはく、「将、戦(いくさ)にあるときは、君の命をもうけざるところあり」。軍正に問ひていはく、「三軍に馳せたるをば、法いかがする」。軍正答へて申さく、「これも斬(ざん)に当す」。使者、大きに怖づ4)。穣苴がいはく、「君の使をば斬るべからず」とて、その僕車の左附馬の左驂(さん)を斬りてぞ、三軍に侚(とな)へける。

穣苴、士卒と粮食を等しくし、疲れたるものにはねんごろに与へ、病(やまひ)せる者には薬などを賜びければ、「われ先を駆けん」とぞ争ひひける。晋の戦も燕の戦も、かやうのことどもを聞きて、戦はずして帰りましかば5)、邦(くに)の内の境どもを取り返して帰り参りしかば、景公、大きに喜びて、御心地も直りにけり。いよいよ穣苴をぞ尊崇せられし。

景公三十二年に彗星6)見えけり。景公、柏寝に坐(ゐ)て歎き給ふ。晏子7)がいはく、「君、台を高くし、池を深くして、賦斂(ふれん)得ざるがごとし。刑罰勝たざることを恐る。茀星8)もまた出でなむとす。彗星を何ぞあはつるや」とぞ申しける。

晏子、常には一日に三度(みたび)諫め申す。晏子失せて後、景公のたまひけるは9)、「昔、晏子一日に三度(みたひ)われを責めき。今は誰(たれ)かわれを責むべき」とぞ、泣き哀(かなし)ぶ。

また、大旱10)して三年、これを卜(うらな)ふに、「人をもて祠(まつ)るべし」と言へり。公の曰く、「われ雨を願ふは民のためなり。必ず人をもて祠らんに雨降らば、われみづから当るべし」と言ふ。言葉いまだ終らざるに雨降る。

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を好しかは百姓瘢(ハン・キス)○武勇(ブヨウ)の人をまひらす名をは穣苴(シヤウシヨ)
とそいひし  晏嬰(アンエイ)の申けるはこの人文はよく衆をつけ
(○イニ瘡多カリキ楚
王細腰ヲ好シ
カハ宮中餓死
多カリキカヤウ
ノ事ハ御用意アルヘキ也又管仲病スル時桓公向(ムカウ)テ歎キ惜次ニ問曰群臣ノ中ニ誰ヲカ可用管仲カ申サク
臣ヲ知ハ君ニ如ハナシ公ノ曰ク易牙(エキカハ)如何対曰其子ヲ殺テ君ニ叶ヘリ人ニ情ニ非ス公ノ曰開方ハ如何対曰親ヲ/s44r・m78
倍(ソムイテ)君ニ適(カナヘリ)人ノ情ニアラス近付カタシ公ノ曰堅力ハ如何対曰自宮(ジキウ)シテ君ニ叶ヘリ人ノ情ニアラスシタシミカタシト
申ケル斉景公ノ御時晋ノ国燕ノ国ヨリ境ヲ侵シテ斉ノ軍ノ破シヲ景公深ク愁ヘ玉フ晏嬰ト云人
武はよく敵を威(ヲト)す称(セウ)かはくは試(ココロミ)給へと申すに景公これを
めしてともに兵の事をかたりて大によろこひ給て将軍
になしたまふ兵に将として燕晋(エンシン)の師をふせくへきよし
仰らる穣苴の申さく臣もとより卑賤(ヒセン)なれは君櫂(ヌキテ)たまへ
とも士卒(シソツ)いまたつかす百姓も信せし人微(ヒ)なれは権(クワン)かろ
しといへりねかはくは君の寵(チヤウ)臣国の中の尊(タト)き人をたま
はりて軍を監(カン)せしめんと申す景公いはれありとて荘(サウ)
賈(カ)といふ人をつかはす穣苴(シヤウシヨ)いくさにゆく時に荘賈(シヤウカ)と約
束して明日の日中に軍門に会すへしと契(チキリ)つ穣苴
はすなはち馳(ハセ)て軍門にいたりつつ表を立チ漏(ロ)を下して/s44l・m79

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/44

荘賈をまつ荘賈もとよりおこり貴き人なり親戚(シンセキ)左
右をくりやしなひなとしけれは日中まていたらす
穣苴表を仆(タヲレ)漏を決してひとり入て軍を行る
に日くれて荘賈いたれり穣苴かいはく何そ期にをくれ
たるや荘賈謝(シヤ)していはく大夫親戚をくりつるほと
にととまりつといふ穣苴かいはく将の命を受る日そ
の家をわすれ軍に臨(ノソミ)てやくそくをするときその親を
わする桴皷(フコ)の急なるを聞て其身をわするいま敵
の国ふかく侵(ヲカ)して郡(クニ)の間騒動(ソウトウ)すれは君寝(イネ)たまふに
席(セキ)を安せす食し給に味を甘(あまんせ)せす百姓の命なんちに/s45r・m80
かかれは何そ相送(アイヲクル)やといふすなはち軍正をめして問ていはく
軍法に期(キ)して後たるものをはいかかするこたへて申さく
斬(サム)に当すといふ荘賈をちて使を景公にまいらせて救(スクイ)
をこふその使いまたかへらさるほとに荘賈を斬(キリ)て三軍
に侚(トナエ)しかは三軍の人々みなふるひをちつつしはらくして景公
使をつかはして荘賈をゆるし給ふ穣苴かいはく将いくさに
あるときは君の命をもうけさるところあり軍正にとひ
ていはく三軍に馳たるをは法いかかする軍正こたへて申
さくこれも斬に当す使者大につ穣苴かいはく君の使をは
きるへからすとてその僕(ホク)車の左附(フ)馬の左驂(さん)をきりて/s45l・m81

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/45

そ三軍に侚(トナエ)ける穣苴士卒(シソツ)と粮(リヤウ)食をひとしくしつ
かれたるものにはねんころにあたへやまひせるものには薬なと
をたひけれはわれさきをかけんとそあらそひける晋のいくさも
燕のいくさもかやうの事ともをききて(イニ戦ハスシテ帰リマシカハ)邦(クニ)の内
の境(サカイ)ともをとりかへしてかへりまいりしかは景公大によろ
こひて御心ちもなをりにけりいよいよ穣苴をそ尊崇(ソンソ)
せられし
景公卅二年に彗星(セイセイ)みへけり景公柏寝に坐(ヰ)てなけき給ふ
晏子(アンシ)かいはく君臺(キミタイ)を高し池を深して賦斂(フレン)得(エ)さるか
ことし刑罸(ケイハツ)勝さることをおそる茀(ハイ)星も又いてなむとす/s46r・m82
彗星を何にそあはつるやとそ申ける
晏子常には一日に三たひ諫申す晏子うせてのち景公の
ためひけるは昔晏子一日に三たひ我を責き今はたれか我
を責へきとそ泣哀(ナキカナシ)ふ
又大旱(ヒテリ)て三年これを卜に人をもて祠へしといへり公の曰く
我雨をねかふは民のためなりかならす人をもて祠らんに雨ふらは
我みつから当へしといふことはいまたをはらさるに雨ふる/s46l・m83

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/46

1)
冒頭からここまで、底本は本文を欠く。底本の異本注記により補った。
2)
司馬穰苴
3)
「願はくは」は底本「称(セウ)かはくは」。「称」は「ね」の誤写とみて訂正。
4)
「大いに怖づ」は底本「大につ」。内閣文庫本により訂正。
5)
底本「戦はずして帰りましかば」なし。底本の異本注記により補う。
6)
底本読み仮名「セイセイ」
7)
晏嬰
8)
底本「茀」に「ハイ」と読み仮名。
9)
「のたまひけるは」は底本「のためひけるは」。内閣文庫本も同じ。文脈により訂正。
10)
底本「旱」に「ヒテリ」と読み仮名。
text/karakagami/m_karakagami2-20.txt · 最終更新: 2022/12/04 18:44 by Satoshi Nakagawa