唐鏡 第一 伏羲氏より殷の時にいたる
11 夏 帝禹
校訂本文
この次の国をば夏と号す。金徳なり。第一の帝をば帝禹(ていう)と申しき。名を文命といふ。鯀(こん)が子、顓頊(ぜんぎよく)の孫、昌意(しやうい)が曾孫、黄帝の玄孫(やしはご)なり。母は莘氏(しんし)の女(むすめ)、神珠薏苡(しんしゆよくい)を呑みて、胸圻(さ)けて、禹を生み給へり。
虎の鼻、大きなる口なり。両耳参鏤(しんろう)にして、首に鉤鈴(こうれい)をいただき、胸に玉斗(ぎよくと)あり。身のたき九尺九寸、その仁、親(しん)しつべし1)。その言、信しつべし。声は律をなし、身は度(ど)をなし給ふ。
父鯀が功のならずして2)、誅(ちう)を受けたることをいたみて、十三年まで家門を過ぐれども入らず、衣食をうすくして、孝、鬼神(きしん)にいたし、宮宝をいやしくして、費(つひえ)を海域3)に出だし給ふ。水より行く時は船に乗り、泥(でい)より行く時には橇4)に乗り、山より行くときには檋(きよく)に乗りて、やすきことなし。雨に沐(ゆあび)、風に櫛(かしらけづ)れば、面痩せ黒く、手足には胼胒(ひびあかがり)のみありて、毛一すぢ5)も生ひずして、つひに大功を成し給へり。
すべて七百余国に九州を別へ、貢賦(こうふ)を均(ひと)しくし給へり。五十畝(ほ)を作る者には五畝にぞ租税をはなさせ給ひける。罪人を見給ひては車より下りて泣き給ふ。
南に巡りて江6)を過ぎ給ひしに、二つの黄竜、御舟を負ひしに、舟人おぢわななきしに、禹一人笑ひて、命(めい)を天に受けて、力をこんで7)人をやしなふ。「生死は命なり。われ何ぞ8)憂ふべき」とのたまひしかば、竜、尾9)を曳きて去りにき。
この御時、三日の間、血降ることありき。また、夏の天に水の氷り、地の裂くることもありき。
在位十年。御年百歳。会稽といふところへ送り奉りき。御子孫、相承し給ひて十七代なり。10)
翻刻
この次国をは夏と号す金徳なり第一の帝をは帝禹(テイウ)と申き名 を文命といふ鯀(コン)か子顓頊(ゼンギヨク)の孫昌意(シヤウイ)か曾孫黄帝の玄孫(ヤシハコ)也母は 莘氏(シンシ)の女神珠薏苡(シンシユヨクイ)を呑て胸(ムネ)圻(サケ)て禹をむみ給へり虎の鼻(ハナ)/s18l・m35
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/18
大なる口なり両耳参鏤(シムロウ)にして首に鉤鈴をいたたき胸に玉斗(きよくとう) あり身のたき九尺九寸其仁(シン)親(シン)し(たしむ也)つへし其言信しつへし声は律 をなし身は度(ト)をなし給ふ父鯀か功のならすして誅(チウ)をう けたることをいたみて十三年まて家門をすくれともいらす 衣食(イシヨク)をうすくして孝鬼神(カウキシン)にいたし宮宝をいやしくして 費(ツイヘ)を海域(コウヰキ 洫/ミソノ心也)にいたし給ふ水より行ときは船にのり泥(テイ)より ゆく時には橇(セイ/ハキモノ心)にのり山より行ときには檋(キヨク)にのりてやす きことなし雨に沐(ユアヒ)風に櫛(カシラケヅ)れは面やせくろく手足には胼胒(ヒヒアカカリ) のみありて毛一寿すもおいすして遂に大功を成給へりす へて七百餘国に九州を別へ貢賦(コウフ)を均(ヒトシク)し給へり五十畝(ホ)をつ/s19r・m36
くる者には五畝にそ租税(ソサイ)をはなさせ給ける罪人を見給ては車 より下てなきたまふ南に巡て江をすき給しに二の黄龍御 舟を負(ヲヒ)しに舟人をちわななきしに禹ひとり笑(わらイ)て命(メイ)を天に 受て力を〓(コン)て人をやしなふ生死は命なり吾なに(何ソイニ)うれふへ きとのたまひしかは龍尾(タツヲ)を曳てさりにきこの御時三日のあひ た血(チ)ふることありき又夏の天に水のこほり地のさくる事もあ りき在位十年御とし百歳会稽(クワイケイ)といふところへをくりたて まつりき御子孫相承し給て十七代なり 本私云 第二王啓第三太康第四中康第五王相六小康七王予八王槐九王芒十王泄十一不降十二王扃十三王廑 十四孔甲十五王皐十六王発/s19l・m37