唐鏡 第一 伏羲氏より殷の時にいたる
4 黄帝
校訂本文
次の帝皇を黄帝と申す。土徳。少典(せうてん)の子なり。姓は公孫、名を軒轅と申す。母を附宝(フホウ)と申しき。大電(だいでん)の光の、北斗の枢星(すうせい)を繞(めぐ)るを見て、心に感じて孕み給ひぬ。二十五月ありて、帝を寿丘に生み給ふ。
竜顔(りようがん)にまして、幼にして侚斉(しゆんせい)なり。始めて衣裳を垂れ、舟檝(ふねかぢ)を作り、弧矢1)を作り給へり。始めて棟宇2)を構へたり。常兵(じやうへい)をもて営衛(えいえい)とし給ひ、すべて五十二戦とぞ承りし。
蚩尤(しいう)と天下を争ひ給しに、蚩尤は鋼頭鉄身3)にして、弓にもその身を害することあたはざりしかば、黄帝天に仰せて、誓ひてのたまはく、「われ必ず4)天下に王たるべくは、蚩尤を殺し給へ」と。その時に、玉女天より降り来て、反閇禹歩(へんばいうぶ)す。蚩尤の身、湯の沸くがごとくして、正月十五日にぞ切り殺されける。その首は天下の怨賊 (おんぞく)なるゆゑに、それより後(のち)、歳の首にはその霊を射る的(まと)には、蚩尤が面目なり。毬5)は、蚩尤が頭(かうべ)なり。これによりて射蹴るなり。
この御時、風后を上台6)に配し、天老を中台に配し、五聖を下台に配し、三公とし給へり。また、佐官(さくわん)七人ありき。蒼頡(さうけぢ)は書字を造り、大橈(だいぜう)は甲子(かし)を造り、隷首(れいしゆ)は算数(さんじゆ)を造り、容成(ようせい)は暦を造り、岐伯(ぎはく)は医方(いほう)を造り、鬼臾区(きゆく)は占候(せんこう)を造り、奚仲(けいちう)は車を造れり。
また、扁鵲(へんじやく)をして内を治しめ、巫咸(ふかん)をして外を治しむとて、二人の善医7)人あり。後六国の時、また扁鵲といふ良医8)は、この名をとりたりけるにや。それをば盧国にあるゆゑに盧医9)とも申せり。
杜康(とかう)始めて酒を造る。酒は天の美禄(びろく)、帝王の頤養(いやう)しふ給ゆゑ、祀りをいたし、福を祈り、衰へたるを扶(たす)け、疾(やまひ)を養ふ。百福の宗、百薬の長なり。穀(こく)を蒸して飯とし、穀を煮て粥とすることも、この御時より始まる。
また、伶倫をして解谷(かいこく)の竹を採らしめて、十二管を制して律呂(りつりよ)を定め給ひき。雲門咸池(うんもんかんち)の楽(がく)もこの御時作られたり。
帝、梟破鏡(けうはきやう)を羹(あつもの)にして、宴会のとき群臣に賜ふ。梟(ふくろふ)は母を食ふ、梟破鏡は父を食ふ獣なり。かやうの悪しき物を断ち失なはれんゆゑなるべし。今の世には、節会のとき梟鏡10)の代りに、蚫(あはび)の羹を臣下に賜ふとかや。
帝、妻子を去ること躧(くつ)を脱ぐかごとくにすとて、具茨山に行きて塗(みち)を問ひ給ふ。この後(のち)、帝位をのがれて太上皇と申す。君を黄帝に比したてまつりて脱〓11)(だつし)と称し、御在所をば具茨山と申すなり。
帝、宝鼎(ほうてい)三つを作りて、天地人にぞかたどらせ給ひける。また首山の銅(あかがね)采(と)りて鼎(かなへ)を荊山(けいざん)に鋳させ給ふ。鼎すでに成りぬるときに、竜ありて胡髯(こぜん)を垂れて下(くだ)りて、帝を迎へ奉る。帝、のぼりて騎(き)し給ふ。君臣後宮の従ひて、竜にのぼるもの七十余人。竜、すなはちのぼり去りぬ。小臣ののぼるごとに、さることごとくに竜の髯(ひげ)を取れり。竜の髯抜けて、帝弓を落せり。百姓仰(あふ)ぎ望みて、その弓と竜の髯とを抱へて号(さけ)ぶ。このゆゑ後の世、そのところを鼎湖(ていこ)といひ、その弓を烏号(おがう)とは申すなり。
御在位は一百年なり。三百年とも申すめり。左徹(さてつ)と申す人、帝を恋慕し奉りて、その御形を刻み奉りて、朝夕に礼拝し奉りし心ざしあはれに覚え侍りき。
この帝、后妃四人、御子二十五人、姓を得給へるは十四人なり。道行き人を守(まぼ)らんと誓ひて、道祖神12)となり給へるも、二十五人の中なるべし13)。
七月に三日三夜の間、天おほいに霧降りたること侍りき。また七日七夜の間、甚雨なることも侍りき。聖代の昔も、かやうなる変異多く侍れども、いよいよ徳政をほどこして災難を消たれ侍るにや。
翻刻
次の帝皇を黄帝と申す土徳(トトク)少典(セウテン)の子也姓は公孫名を軒轅 と申す母を附宝(フホウ)と申き大電(タイテン)の光の北斗(ホクト)の枢星(スウセイ)を繞る を見て心に感して孕(ハラミ)給ぬ廿五月ありて帝を寿丘に生給ふ 龍顔(リヨウガン)にまして幼にして侚斉(シユンセイ)なり始めて衣裳(イシヤウ)を垂れ舟檝(フネカチン)/s10r・m18
を作り弧矢(ユミヤ/キウシ)をつくり給へり始て棟宇(トウウ/ムネヤカタ)を構(カマ)へたり常兵(シヤウヘイ)を もて営衛(エイエイ)とし給ひすへて五十二戦とそうけたまはりし 蚩尤(シイウ)と天下を争(アラソイ)給しに蚩尤は鋼頭鉄身(アカカネノカウヘクロカネノミ)にして弓にも其 身を害することあたはさりしかは黄帝天に仰て誓て のたまはく我女(必イ)す天下に王たるへくは蚩尤を殺(コロシ)給へとその時 に玉女天より降来て返閇禹歩(ヘンハイウブ)す蚩尤の身湯(ユ)の沸かこと くして正月十五日にそきりころされけるその首は天下の怨(ヲン)賊 なるゆへにそれよりのち歳の首には其霊(ソノレイ)を射る的(マト)には蚩尤か面目(メンホク) 也毬(キウ/テマリ)は蚩尤か頭(カウヘ)なりこれによりて射蹴(イケ)る也この御時風后/s10l・m19
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/10
を上台(タイ/ホシ)に配し天老を中台に配し五聖を下台に配し三公と し給へり又佐官(サクワン)七人ありき蒼頡(サウケヂ)は書字(シ)を造(ツク)り大橈(セウ)は甲子(カシ)を 造り隷首(レイシユ)は算数(サンシユ)を造り容成(ヨウセイ)は暦を造り岐伯(ギハク)は医方(イホウ) を造り鬼臾区(ユク)は占候を造り奚仲(ケイチウ)は車を造れり又扁 鵲をして内を治しめ巫咸(フカン)をして外を治しむとて 二人の善医(ヨキクスシ)人あり後六国の時又扁鵲といふ良医(クスシ/イシ)はこの名 をとりたりけるにやそれをは盧国(ロコク)にあるゆへに盧医(ロイシ)とも 申せり又杜康(トカウ)はしめて酒を造る酒は天の美禄(ヒロク)帝王 の頤養(イヤウ)し給ゆへ祀(マツリ)をいたし福をいのり衰(ヲトロヘ)たるを扶(タスケ)疾(ヤマイ) を養ふ百福の宗百薬の長なり穀(コク)を蒸(ムシ)て飯とし穀(コク)/s11r・m20
を煮(ニ)て粥(カユ)とすることも此御時よりはしまる又伶倫をし て解谷(カイコク)の竹をとらしめて十二管(クワン)を制(セイ)して律呂を定め給 き雲門咸池(カンチ)の楽もこの御時つくられたり帝梟破鏡(ケウハケイ)を 羹(アツモノ)にして宴会のとき群臣に賜ふ梟(フクロウ)は母を食ふ梟破鏡 は父を食ふ獣なりかやうのあしきものをたちうしなはれん ゆへなるへしいまの世には節会のとき梟(破イ)鏡のかはりに蚫(アハヒ)の羹(アツモノ) を臣下に賜とかや帝妻子を去こと躧(クツ)を脱(ヌク)か如にすとて 具茨(クシ)山にゆきて塗(ミチ)を問給ふこののち帝位をのかれて太上皇 と申す君を黄帝に比したてまつりて脱〓(タツシ)と称し 御在所をは具茨山と申なり帝宝鼎(ホウテイ)三を作て天地人/s11l・m21
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/11
にそかたとらせ給ける又首(シユ)山の銅(アカカネ)采(トリ)て鼎(カナヘ)を荊(ケイ)山に鋳させ 給ふ鼎すてに成ぬるときに龍ありて胡髯(コセン)を垂てくた りて帝を迎へたてまつる帝上て騎(キ)したまふ君臣後宮 の従て龍にのほるもの七十餘人龍すなはちのほりさりぬ 小臣ののほることにさることことくに龍の髯(ヒケ)をとれり龍の 髯抜(ヌケ)て帝弓をおとせり百姓仰(アフキ)望て其弓と龍の髯 とを抱て号(サケ)ふこのゆへ後の世其処を鼎湖(テイコ)といひ其弓を 烏号(オカウ)とは申なり御在位は一百年也三百年とも申めり 左澈(サテツ)と申人帝を恋慕(レンボ)したてまつりてその御形を きさみたてまつりて朝夕に礼拝したてまつりしこころさし/s12r・m22
あはれにおほえ侍きこの帝后妃四人御子二十五人姓を得たまへ るは十四人也道ゆき人をまほらんと誓て道祖神(タウソシン/サイノカミ)となり 給へるも二十五人の中なるへし(イニ ニヤ遊子猶行残月トイヘル是ナルヘシ)七月に三日三夜のあ ひた天大に霧ふりたること侍き又七日七夜のあひた甚雨 なることも侍き聖代のむかしもかやうなる変異(ヘンイ)おほ く侍ともいよいよ徳政をほとこして災難(サイナン)をけたれ侍にや/s12l・m23