今昔物語集
巻5第31話 天竺牧牛人入穴不出成石語 第卅一
今昔、天竺に仏1)未だ出給はざる時、一人の牛飼ふ人有けり。数百頭の牛を飼て、林の中に至るに、一の牛、共(とも)を離れて独り去て、常に失ぬ。行く所を知らず。
牛を飼て、日暮に成て、返らむと為るに、此の一の牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿也。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他の諸の牛、皆此の牛に恐て、近付かず。
此の如くして、日来有るを、此の人、怖(うらめし)び思ふと云へども、其の故を知らず。然れば、此の人の、「牛の行所を見む」と思て、伺ひ見るに、此の牛、片山に一の石の穴有り、其の穴に入る。此の人、亦、牛の尻に立て入る。
四五里許入て、明なる野有り。天竺にも似ず、目出たき花盛りに開けて、菓(このみ)満たり。牛を見れば、一の所にして、草を食して立たり。此の人、此の菓樹を見るに、赤く黄にして、金の如し。菓一果を取て、貪り愛(めづ)と云へども、恐れて食はず。
而る間に、牛、出ぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて返り出づ。石の穴の所に至て、未だ出ざる間に、一の悪鬼出来て、其の持たる菓を奪ふ。此の人、此の菓を口に含つ。鬼、亦其の喉を捜る。其の時に、此れを飲入れつ。菓、既に腹に入ぬれば、其の身、即ち大きに肥ぬ。
穴を出るに、頭は既に出づと云へども、身、穴に満て、出る事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人無し。家の人、此れを聞て、来て見るに、其の形変じて、恐れずと云ふ事無し。其の人(ひ)と、穴の内にして有つる事を語る。家の人、諸の人を集めて、引出さむと為れども、動く事無し。国王、此の事を聞て、人を遣て掘らしむるに、亦動く事無し。日来を経るに死ぬ。年月積て、石と成て、人の形と有り。
其の後、亦、国王、「此れは仙薬を服せるに依て也」と知て、大臣に語て云く、「彼れは既に薬に依て身を変ぜる也。石也と云へども、其体、既に神霊也。人を遣て、少許を削り取て来べし」と。大臣、王の仰せを奉(うけたまはり)て、之2)と共に其の所に行て、力を尽して削ると云へども、一旬を経るに、一片も削り得ず。
其の体、于今猶有りとなむ語り伝へたるとや。