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今昔物語集

巻1第4話 悉達太子出城入山語 第四

今昔、浄飯王の御子悉達太子、年十九に成給ふに、心の内に深く出家すべき事を思して、父の王の御許に行給ふ。威儀を調へ給へる事、帝釈の梵天に詣づる有様の如し。

大臣有て、太子の来給へる由を申す。王、此るを聞給て、憂の中に喜び給ふ事限無し。太子、大王に向て、首を傾て礼し給ふ。王、此れを抱て坐せしめ給ふ。太子、座に居て、王に申して宣はく、「恩愛は必ず別離有り。唯し1)願くは、我が出家・学道を聴し給へ。一切衆生の愛別離苦を、皆解脱せしめむか」と。

王、此れを聞給て、心大に苦しび痛み給ふ事、尚し金剛の山を摧破するが如し。身挙て、居給へる座安からず。太子の手を取て、「物宣ふ事無れ」と、哭(なき)給ふ事限無し。太子、王の涙を流して、聴し給はざる事を見給て、恐れて返給ひぬ。只、出家をのみ思て、楽ぶ心御(おはしま)さず。

王、此の心を見て、大臣に仰せて、固く城の四の門を守らしむ。戸を開き閉(とづ)るに、其の声四十里に聞ゆ。

然るに、太子の御妻、耶輸陀羅、寝たる間に三の夢を見る。一には、月、地に堕ぬ。二には、牙歯落ぬ。三には、右の臂を失ひつと。夢覚て、太子に此の三の夢を語て、「此れ何(いか)なる相ぞ」と。太子の宣はく、「月は猶天に有り。歯は又落ちず。臂猶身に付り。此の三の夢、虚くして実に非ず。汝ぢ、恐るべからず」と。

太子に三人の妻有り。一をば瞿夷と云ふ。二をば耶輸と云ふ。三をば鹿野と云ふ。宮の内に三の殿を造て、各二万の采女を具せしむ。

其の時に、法行天子、宮の内に来て、神通を以て、諸の采女の身体・服飾を縦横に成て端(ただ)さしめず。或は、衣裳を棄て、目を張て眠る者有り。死たる屍の如也。或は、仰ぎ臥て、手足を展て、口を張て眠る者有り。或は、身の諸の瓔珞の具を脱捨て、或は、大小の便利の不浄を出して眠る者有り。太子、手に灯を取て、此の様々の貌を見給て思す様、「女人の形、不浄に見悪き事、顕(あらは)也。何の故にか、此れに貪せる事有らむ」と思す。

後夜に、浄居天及び、欲界の諸の天、虚空に充満て、共に声を同して、太子に白して言さく、「内外眷属皆悉く眠り臥たり。只今、此れ出家の時也」と。太子、此れを聞給て、自ら車匿が所に御して、「我を乗せむが為に、犍陟2)に鞍置て将来るべし」と。車匿、天の力に依て、寝ずして有り。太子の御言を聞て、身挙り心戦(わななき)て、云事無し。暫く有て、涙を流して申さく、「我れ、太子の御心に違はじと思ふ。又、大王の勅命を背かじと怖る。又、只今遊に出給ふべき時に非ず。又、怨敵を降伏し給ふべき日に非ず。何ぞ、後夜の中に馬を召ぞや。何の所へ行むと思食ぞ」と。太子の宣はく、「我れ、一切衆生の為に、煩悩・結使の賊を降伏せむと思ふ。汝ぢ、我が心に違ふべからず」と。車匿、涙を流す事雨の如し。再三拒み申すと云へども、遂に馬を牽て来ぬ。太子、漸く進むで、車匿・犍陟に語ひ給ふ。「恩愛は会(あふ)と云へども離る。世間の無常、必ず畏るべし。出家の因縁は必ず遁れ3)難し」と。車匿、此れを聞て、云ふ事無し。又、犍陟、嘶(いば)え鳴く事無し。

其の時きに、太子、御身より光明を放て、十方を照し給ふ。「過去の諸仏の出家の法、我れ又然也」と。諸天、馬の四足を捧げ、車匿を接(いだ)き、帝釈は蓋(きぬがさ)4)を取り、諸天皆随へり。城の北の門を、自然(おのづか)ら開しむ。其の声音無し。太子、門より出給ふに、虚空の諸天、讃歎し奉る事限無し。太子、誓を発して宣はく、「我れ、若し生老病死・憂悲苦悩を断たずば、終に宮に返らじ。我れ、菩提を得ず、又法輪を転ぜずば、返て父の王と相見えじ。我れ、若し恩愛の心を尽さずば、返て摩訶波闍5)及び耶輸陀羅を見じ」と誓ひて、天暁に至て、行く所の道の程、三由旬也。諸天、太子に随て、其の所に至て、忽に見えず。

馬の駿(と)き事と、金翅鳥の如し。車匿、離れずして、御共に有り。太子、跋伽仙人の苦行林の中に至り給ぬ。馬より下り給て、馬の背を撫て宣はく、「我れを爰に将来れり。喜び思ふ事限無し」。又、車匿に宣はく、「世の人、或は、心吉と云へども、形随はず。或は、形ち吉と云ども、心に叶はず。汝は、心・形、皆違ふ事無し。我れ、国を捨て、此の山に来れり。汝ぢ、一人のみ我に随へり。甚だ有難し。我れ、聖の所に来れり。汝、速に犍陟を具して、宮に返ね」と。車匿、此れを聞て、地に倒れて、哭き悲しむ事限無し。犍陟も、「返ね」と宣ふを聞て、膝を屈(かが)め蹄を舐(ねぶり)て、涙を落す事、雨の如し。

車匿、申して云く、「我れ、宮の内にして、大王の勅に違て、犍陟を取て太子に奉て、御共に参れり。大王、太子を失ひ奉り給て、定て悲び迷ひ給ふらむ。又、宮の内の騒ぎ愚ならじ。我れ、何(いかに)してか、太子を捨奉て、宮に返らむ」と。太子の宣はく、「世間の法は、一人死して、一人生れぬ。永く副ふ事有らむや」と宣て、車匿に向て、誓て宣はく、「過去の諸仏も、菩提を成むが為めに、飾6)を棄て、髪を剃(そり)給ふ。今、我も又然るべし」と宣て、宝冠の髻の中の明珠を抜て、車匿に与て、「此の宝冠明珠をば、父の王に奉るべし」。身の瓔珞を脱て、「此れを摩訶波闍7)に奉るべし。身の上の荘厳の具をば、耶輸陀羅に与ふべし。汝ぢ、永く我を恋ふる心ろ無かれ。犍陟を具して、速に宮に返ね」と宣へども、更に返らずして、哭き悲む。

其の時に、太子、自ら釼を以て、髪を剃給ひつ。天帝釈来て、髪を取て去(いに)給ぬ。虚空の諸天は、香を焼き花を散じて、「善哉、々々」と讃(ほめ)奉る。其の時に、浄居天、太子の御前にして、獦師と成て、袈裟を着たり。太子、此れを見て喜て宣はく、「汝が着たる衣は、寂静の衣也。往昔の諸仏の袈裟也。何ぞ此れを着乍ら罪や造る」と。獦師の云く、「我れ、袈裟を着て、諸の鹿を誘ふ。鹿、袈裟を見て、来て、皆我れに近付く。我れ、其れを殺(ころす)也」と。太子の宣はく、「汝が袈裟を着るは、鹿を殺むが為也。解脱を求て着たるには非ず。我れ、此の七宝の衣を汝に与て、汝が着たる袈裟を我れ着て、一切衆生を救はむ」と。獦師、「善哉」と云て、太子の衣に袈裟を替つ。太子は獦師の袈裟を取て、着給つ。

其の時に、浄居天、本の形に成て、虚空に昇ぬれば、空中に光明あり。車匿、此れを見て、「太子、返給まじ」と知て、地に臥て、弥よ悲を増す。太子、車匿に宣はく、「汝ぢ、速かに宮に返て、具に我が事を申すべし」と。然れば、車匿は号び渧(さけ)び、犍陟は悲び泣て、道のままに皈りぬ。

宮に返て、具に事の有様を申すに、大王を始奉て若干の人、哭き悲み騒ぎ合る事限無し。

此の犍陟は太子の御馬也。車匿は舎人也けりとなむ、語り伝へたるとや。

1)
底本頭注「唯シ諸本シ字ナシ」
2)
底本頭注「犍陟諸本金蹄ニ作ル下同ジ」
3)
「遁」は底本異体字。「遯」。
4)
底本頭注「蓋一本轡ニ作ル」
5) , 7)
摩訶波闍波提
6)
底本異体字「餝」
text/k_konjaku/k_konjaku1-4.txt · 最終更新: 2016/03/30 14:59 by Satoshi Nakagawa