塙保己一
はなわほきいち(1746〜1821)
概要
生い立ち
延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に小野篁を祖先とする荻野家に生まれた。父は宇兵衛、母はきよ。丙寅に生まれたため寅之助と名付けられた。
7歳ごろ失明し、辰之助と改名。また多聞房という別名をつける。
宝暦10年(1760)、15歳のときに江戸に立ち、雨富検校須賀一に入門。このとき、千弥と改名する。盲人一般の生業だった音曲・鍼灸・按摩が上達せず九段坂の濠、牛ヶ淵に身を投げようとする。
その後、雨富検校のはからいにより、学問をすることを許される。宝暦11年、雨富検校の隣人にして保己一に書を読んで聞かせていた松平乗尹の紹介により歌学者萩原宗固に入門。さらに、漢学、神道を闇斎派の川島貴林に、故実を山岡浚明に、医学書を品川東禅寺の孝首座に学んだ。
宝暦13年、18歳で衆分になり、名を出身地に由来する保木野一に改める。
明和6年(1769)、24歳のときに萩原宗固の勧めにより、賀茂真淵に入門し、真淵最晩年の弟子となる。真淵は半年後死去。
安永4年(1775)正月、30歳で勾当になる。雨富検校の本姓である塙に改姓し、名を保己一に改める。なお、「保己一」は『文選』の「保己安百年」を出典とするという。雨富検校の家を離れ、番町厩谷の北坂上にある高井実員の宅地内に移る。このころから、大田南畝との交際が始まる。
安永8年(1779)、『群書類従』編纂のため、天満宮に般若心経百万巻の願をかける。東条長祇宅地内に転居。屋代弘賢はこのころ保己一に入門したらしい。
天明2年(1782)37歳で紀伊家の医師、東条清民のむすめと結婚する。
天明3年(1783)3月7日、検校になる。3月には長女とせ子が生まれる。とせ子は後に『群書類従』編纂の事業を援けることになる。この年、萩原宗固の勧めにより、日野資枝に入門する。
天明5年(1785)妻と離縁。
天明6年(1786)2月25日、『群書類従』の見本版『今物語』を刊行。予約を募集する。
右之書次第にかかはらず、望の者多く有之候巻、去々月より一二冊づつ開版仕候。いづれの部にても御好に任せ候間、御懇望の方は、当六月廿五日より十月六日迄に、土手四番町塙検校宅え可被仰遣候。猥に開版不然ものも御座候に付、摺たて弐百部を限り候間、其後は御断申候。料は今物語の通の紙仕立てにて、紙十枚六分二リン、仕立四分五リンに御座候。(大田南畝『一話一語』)
天明8年(1788)43歳で生涯唯一の著作『花咲松』を書く。
寛政元年(1789)水戸文公(治保)にまみえ、『源平盛衰記』の校正をすることになり、月棒五人分となる。10月ごろ『花咲松』と『源平盛衰記』校正の業績が認められ、『大日本史』の校正を担当することになり、月棒は倍の十人分となる。
寛政2年(1790)長男寅之助出生。母は西文次郎の娘だが、結婚の時期は不明。
寛政5年(1793)2月、和学講談所とその文庫を建設する用地を借用したいとの願いを寺社奉行脇坂淡路守(安董)に提出。
近年文華年を追いて相ひらけ、殊更御改正後諸道繁栄仕候処、和学而已未行れ不申候。尤神学・歌学の義者、差当りたより所無御座候。依之会所定置、同士之人々申合せ相励、書生引立候はば、行々出精之ものも有之。国学永くすたれ申真敷と奉存候間、講読所並文庫取立候地所、拝借仕度奉願上候。可相成筋にも御座候はば、何卒御憐愍之程奉願上候。以上
寛政五丑年二月 塙検校印
寺社奉行所
4月29日に許可を得る。5月28日、場所についての願いを提出、7月23日に裏六番町、300坪の土地の借用を認められる。閏11月8日、和学講談所完成。翌日から講談の会が始められる。会頭は奈佐勝皋・屋代弘賢・横田茂語・松岡辰方。
寛政7年(1795)2月、父宇兵衛死去。和学講談所、林大学頭の管理下に入り官立に準じる機関として認められる。この年、既刊の『群書類従』を幕府に献上し、12月、褒美として白銀10枚を受ける。
寛政9年(1797)2月、『群書類従』板木倉庫建設用地の借用を願い出る。4月8日、長男寅之助8歳で死去。
寛政10年(1798)五月、板木倉庫建設用地として、品川御殿山下の土取場に1060坪の借地を許可される。
寛政11年(1799)『日本後紀』8巻刊行。享和元年(1801)に2巻刊行。『日本後記』は、伝本の所在が知られていなかったが、伏見宮家が秘蔵するものを保己一が発見。校訂し刊行した。
寛政12年(1800)『令義解』刊行
享和2年(1802)次男道之助出生。翌年5月11日死亡。
享和3年(1803)正月、和学講談所が手狭になったため地所替えの願いを幕府に提出。翌文化元年(1804)その選定が行われ、文化2年(1805)正月、表六番町(現在の千代田区三番町24)に840坪の土地の貸与が認められる。
文化5年(1808)『史料』編纂を正式に命じられ、年々手当50両の支給と、官費による人員の雇用を許可される。
文化6年(1809)11月、将軍世子家慶祝儀の開口文句を起草。
文政2年(1819)『群書類従』670冊刊行完了。
文政4年(1821)2月、総検校となる。8月23日、総検校を辞し隠居。9月12日、76歳で死去。