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自転車お遍路日記1(2001年夏)

2001年8月06日(月)

午後六時、お台場の近くのフェリー埠頭よりフェリーに乗る。単車と自転車の人が駐車場に集められたが、自転車は私とおじさん1)二人だけだ。単車が優先で、私たちは一番最後に回された。同じ自転車乗りとして船の中では一緒に行動した。

私は武蔵小山の自宅からフェリー埠頭まで自走してきたのだが、この人はなんと横浜から自走してきたという。この人の場合、すでにツーリングが始まっているのだ。

それにしても、このおじさんの会社は一月近くも休みがあり、社員全員でツーリングに行くという。今日も仕事の都合で一日後れになったが2)、むこうで合流するのだ。

しかも、デザイン会社だけに(ブックデザインが仕事だそうだ)やたらと細かい栞をつくっている。詳細なアップダウンのチャートまである。「すごい仕事ですね」というと、「3か月ぐらいかかるんだ」といっていた。大きなお世話だが、大丈夫か?この会社。

2001年8月7日(火)1番~3番

船は午後一時に徳島港に到着。同行のおじさんは、ここから別の港へフェリーをトランジットして和歌山へ。私は一番札所霊山寺をめざす。

天気はとてもいい。しかし、徳島港から一番札所霊山寺まではかなりあり、おまけに途中から夕立だ。霊山寺にやっとこさ着いたのは四時だった。一番札所ですげ笠に輪袈裟と納経帳、線香に蝋燭を買い、急いで二番三番を回った。三番で寺男に四番と五番の間にあずまやがあるから、そこで泊まればいいと言われ、そこへ行ってみると、すでに先客がいた。

一人は50歳くらいのおじさんで、満願して御礼参りという。もう一人はそのおじさんに助けられた筑波大生で、小さなリュックひとつで来ていた。シュラフもマットもコンロも食糧も何も持っていない。もう一人は琉球大生(24歳)で彼は逆に、巨大なザックを背負っていたが、どういうわけか足元がビーチサンダルだ。なんと、米を10Kgも持っている。さらに、ナスとゴーヤを持っていた。

私はインスタント物しか食糧を持っていなかったので、この琉球大生の持っていた米を炊き、三人で食った。ナスとゴーヤは塩もみにした。

あずまやは狭いので、テントを持たないおじさんと筑波大生があずまやで野宿、私と琉球大生がテントを張った。暑くってなかなか寝むれなかった。

2001年8月8日(水)4番~11番

琉球大生の荷物を軽くするため、米をもらった(奪ったのではない)3)。私はまだ4番を打っていないので、三人には先に行ってもらい、暫くしてから出発した。というのも、納経所は7時からしかあいていないのである。

5番で息子夫婦と車で回っているという、徳島のおばあちゃんから1000円と徳島名産すだちジュースのお接待をうける4)。「私も回りたいんだけどね。もう年だから、息子につれてきてもらってるんだよ。暑いけどがんばってね」と言う。暑いなかジュースはとてもうれしい。

6番で先行の大学生二人と会う。彼らはまだお接待を貰っていないという。歩きの彼らに悪いので、さっきの千円で缶ジュースを接待する(もちろんジュースは千円もしない)。

11番藤井寺まで順調に打って、次は難所の焼山寺である。納経所の人は、自転車なら一旦井戸寺まで行った方がいいという。どうしようかと思っていると、また雨が降ってきた。「自動車焼山寺近道」とある看板の近くに児童公園があったので、まだ時間は早いが急いでテントを建てた5)。雨はじきに止んだが、撤営して井戸寺を目指すのは面倒なので、そこで幕営することにした。

公園の回りは一戸建ての団地で、隣は幼稚園という最悪のロケーションだったが、公園そのものは草が生えていて人はこないようだ。トイレも水場もある。食料品店も近い。適当におかずを買って、琉球大生からもらった米を炊いて食う。

フライを張っているから暑かったが、裸でグランドシートの上に直接寝たらなかなか気持ちよかった。

2001年8月9日(木)12番

いよいよ難所焼山寺だ。へんろ道は通れない6)というので、車道を行く。昨日見た「自動車近道7)」からである。気合いを入れて登るが数十メートルで勾配が急すぎて登れなくなる。ときどき乗れる場所もあるが、ほとんど押しだ。

車道だから舗装されているものの、これがいままで見たことがないようなひどい道で、車は滅多に通らないものの、どことなく汚ないわ、アブは多いわ、おまけにスズメバチは飛んでいるはで、さらに車道だから休める所もない。

おまけに途中便意までもよおしてきた。休む場所が無いからトイレなんてないし、得意の野グソするポイントもない。まあ、ぎりぎりまで我慢して、万一のときは道グソを覚悟したが、幸い四国放送の中継地点という開けたところがあったので、立入禁止の柵を攀じ登って用を足した。暑かったが、誰も来る可能性のない野グソというのは爽快なものだ。でも、もうこれっきりにしたい。

峠を越えると、今度は鮎喰川(あぐいがわ)ぞいをどんどん下る。これは最高の気分だ。途中川に下りて水浴びをする。きれいな水だ。

しかし、至福の時は長くは続かない。まあ、下りでスピードが出ているからあたりまえなのだが・・・。焼山寺まであと四キロの看板が出て、また登れない坂だ。

エッチラ、オッチラ、進んでは休み、休んでは進みして行く。ボトルの水が尽きたが、どこにも自販機はもちろん民家もない。おそらく、へんろころがしといわれるへんろ道より過酷だろう8)

幸い、しばらくして民家があった。無人販売所があり、スダチがあったので買う。一袋300円だ。絞って飲もうと思い、ナイフで半分に切って絞ったが、まだ若いので固くて絞れない。仕方がないのでガリガリと食った。

すると上の畑からお爺さんがやってきた。どうも無人販売所のとなりの家の人らしい。「水をください」というと、水ばかりかトマトやらキュウリやらをくれた。最高にうまい。さらにうれしいことに、ここに荷物を置いて歩いて行けという。本当にうれしかった。お大師様の化身か、祖父の化身かと思った。私は荷物を外し、自転車を軽くして焼山寺へ行った。

焼山寺はまだまだ数キロ上だった。さらに悪いことにおまいりをして、納経を済ませるとこんどは大雨だ。しばらく雨やどりをするが、いっこうにやまない。2時間ほど経ってやっと小降りになったので、おじいさんの家へ帰った。

帰ってから聞くと、おじいさんはなかなか帰らない私を心配して、寺に電話までしてくれたそうである。うれしくて涙がでた。

このおじいさんは、夫婦健在で息子と孫と暮しているという。私が「それは幸せですねえ」というと、おじいさんは「良し悪しさ」という。年をとると息子と年が近付いてくるので面倒なのだという。私が祖母と暮しているのだというと、孫とならいつまでも年が離れているからうまくいくのだといった。

しばらくいろいろな話をして、「それじゃあ元気でね」といって別れた。私はその後、神山温泉に入り、おじいさんに教えてもらった、できたばかりの道の駅で野宿した。蚊が多いのに閉口した。

2001年8月10日(金)13番大日寺~立江寺

徳島あたりでビジネスホテルにでも泊まろうと思ったが、徳島市内に着いたのが正午ごろだったので、先へ行くことにした。

しかし、タイムアップの立江寺附近には宿がない。寺の宿坊に電話するも、五時を過ぎているからダメだという。どうやらそれがルールらしい。仕方がないので、明るいうちに鶴林寺にすこしでも近付こう、吉野川ぞいを走るのだから、それまでにはキャンプ適地が見付かるだろうと思ってタカをくくっていたら、雨が降ってきた。どうにもついていない。

県道ぞいの食堂にとびこんで、鮎定食を食った。店には私一人しかいない。吉野川の天然鮎だという。二匹サービスしてくれた。最高にうまいが、不安も最高だ。いつまで待っても雨が止まないのだ。

食堂のおかみさんに「どこか近くに野宿できるところはないですか」と聞いたがないという。しかし、鶴林寺の登り口に「○○屋」というへんろ宿があるから、電話してくれるという。

しらない間にずいぶん近くまで来ていたようだ。私はおかみさんに礼をいうと、荷物にビニール袋をかけて、大雨のなか走り出した。後輪が滑って恐かったが、猛烈なスピードで30分ほど行くと○○屋はあった。ずぶぬれである。

「食堂で電話してもらった中川という者ですけど」というと、「はーい」という返事。しかし、しばらく待っても誰も来ない。上れとも言わないし、タオルも持ってきてくれない。

仕様がないので、大きな声で「自転車はどこに置けばいいんでしょう」というと、隣の駐車場に置けというので、とりあえず自転車を移動して、「ずぶぬれなんですが、上ってもいいですか」というと、とりあえず風呂に入れという。

あまりのサービスの悪さにちょっとむっとしたが、もしかしたらへんろ宿なんてこんなものかもしれないと思った。洗濯もしたかったが、いちいち聞くのが面倒なので、早々に寝てしまった。

2001年8月11日(土)20番鶴林寺~23番薬王寺

鶴林寺は難所だが、焼山寺に比べればはるかにマシだ。それでも難所はやはり難所。数時間かけてやっと登った。そこで、○○屋に同宿のおじさんに会った。実は○○屋に泊まっていたのは私とこのおじさんの二人だけで、おじさんは宿どまりの歩き遍路である。

鶴林寺の参拝を終えると、昨日大日寺であった、自転車遍路のおじさん9)とすれちがった。次の太龍寺では、難所の連続が嫌になり、ロープウェイを使ってしまったのだが、その乗口で昼飯を食っていると、そのおじさんがくるので、私は食堂の窓を叩いてよんだ。後で聞くと、おじさんはこの時とてもうれしかったそうである。

どこかで聞き覚えのある方言なので、どこから来たのか聞いてみると、滋賀県の彦根だという。私のまわりは私の兄弟と母方の叔父の一家以外はすべて滋賀県出身なのだ。それも、みな彦根のすぐ近く。しばらく、このおじさんと一緒に行くことにする。

この日はおじさんの希望でちょっと高い温泉旅館に泊った。もちろん同室である。

2001年8月12日(日)24番最御崎寺~26番金剛頂寺

23番~24番は77キロのロングコースだ。しかし、海岸ぞい(しかも浜である)の道路はサイクリングロードになっていて、景色もよくアップダウンもほとんどなくて、高知に入ってからやたらと暑いのを除けば最高に気分がいい。昼ごろ、室戸岬の24番最御崎寺に着く。

このあたりの札所は、間があいているばかりでなく、ちょっと高いところにあってプチ難所ばかりだ。

27番の神峰寺のふもとのへんろ宿に泊まる。おじさんは明日27番を打って高知空港から帰るという。

私はかねてより話してあったMさんの実家(Mさんはいない)に電話した。今日までこの近くの別荘にいるのだが、明日高知市へ帰るという。私としてはそっちのほうが都合がいい。

ここのところ毎日ふとんで寝ている。幸せなことだ。

2001年8月13日(月)27番神峰寺~30番

神峰寺を打ったあと、ラーメン屋で昼食を食べて彦根のおじさんと別れる。28番からはなんだかずいぶんさびしくなったが、今日は高知市内の知り合いの家におせわになるのでにぎやかだ。こんなんでいいのかなとちょっと思う。

ここから先は接待所なるものが多くなったようだ。接待所とは好意で作られた遍路の休憩所で、トイレや冷たいお茶などがあり、場合によっては無料の宿泊所があったりする。石材屋に作られた接待所などは、なんとクーラーまで入っているうえに、休憩していると社員がやってきたりするのだ。

途中、あまりに暑いので、アイスクリンを食う。非常にうまい。なぜ東京には売っていないんだろう。

30番まで打って、高知市内に入った。はりまや橋の交差点で、東京のわたしの家に電話していると、通りすがりのおばさんが千円を握らせてくれた。もっとお礼を言いたかったが、東京の祖母と電話中でうまく言えなかった。おばさんはにっこり笑って雑踏に消えていった。

Mさんの実家はすぐ近くだった。おいしい魚と酒をもらってゆっくりした。

2001年8月14日(火)31番竹林寺~35番清滝寺

知り合いの家を辞して、竹林寺へ向かう。竹林寺は五台山竹林寺といい、中国の五台山に擬せられているが、なるほどちょっとした山の上だ。もっとも本家は富士山と同じぐらいの高さである。高知には五台山も青龍寺(空海が長安で修行した寺。36番)もあるのだ。

坂をやっとこ登って竹林寺へ行くと、休憩所で三人の若者がいた。うち二人は歩きで、もう一人は私と同じ自転車だった。

彼はA君といい、横浜国大の2年生だ。以後、今日一日一緒に行動することにした。彦根のおじさんと一緒に走ったときは、私の方が速かったが、彼は私よりもずっと重い荷物を持っているのに、かなり速い。ついていくのに大変だ。

その晩は仁淀川のキャンプ場に泊った。A君が焼肉のたれを持っているというので、途中、スーパーで肉を買って焼肉をした。

2001年8月15日(水)36番~37番

36番青龍寺に行く途中、温泉があったのでそこに立寄ったが、何と水曜日は定休日で入れなかった。田圃の中に公民館のように建っている温泉で、かなり残念だった。

ちなみに青龍寺は西安の青龍寺に擬せられている。なぜかトイレが中国風にきんかくしが扉の方を向いていたのが印象的だった。

A君とは36番で別れようということになり、36番で二人で記念写真を撮って、別々に出発したが、いかんせんコースが同じなので、結局道の駅四万十大正で野宿している。近くにキャンプ場があるのだが、ここなら無料なのでここに泊ったのだ。私は蚊が嫌なので、あつかましくもテントを建てている。A君は野宿だが、やはり蚊が多いので、結局テントを建てた。

四万十川は美しく、夜空もきれいだ。空を見ると天の川が見える。情けない話だが、肉眼で天の川を見たのは初めてだ。しばらくテントに入ってもう一度見ようとしたが、曇ってしまって見えなかった。しかし、しばらくして山の向うから花火が上った。

2001年8月16日(木)38番

A君は予定よりかなり早いので、ちょっと寄り道して四万十川を下りながら行くという。私は直接足摺を目指すこととなり、ここでお別れだ。しかし、私は一人になるとかなり遅くなるので、また会うことになるだろう。

道の駅から国道439号を通って足摺へ向かう。この道は国道とはいうものの、ほとんど舗装された林道という感じで、大型車が一台やっと通れるような道だ。カーブも多いし、森の中なので、登りがおおいものの、なかなか楽しい。しかし、ときどき自動車が来るのは閉口だ。

途中、中村駅前で鰻を食べる。天然物だろうか。とてもうまい。ケチって梅にしたのは失敗だった。そこのお姉さんに、水をもらうとおまけに氷まで入れてくれた。

海岸沿いをしばらく行くと、へんろ道と書かれた札がかかっていた。へんろ道はうまく行くと近道になる。自転車でも行けそうな道だったのでそこをしばらく行くと何故か海岸に出てしまった。よく見るとやぶの中に「へんろ道」がある。地元の人に聞くと自転車では通れないだろうと言う。仕方がないのでもとの道へ戻ることにした。

4時ごろ足摺に着く。さすがに観光地だけあって、ホテルなども多い。お参りしてから、展望台に登ったりしてしばし、観光気分を味わう。景色は最高だ。

しかし、ホテルなどは多いものの、幕営適地はなかなか無い。やむなく先に進んだが、途中公園があったので立寄ると、あずま屋もあり、トイレもあり、水場もあり野宿にはよさそうな広大な公園だった。

立札があって、「これはキャンプ禁止か」と思ってよく見ると「ここは民家に近いため、キャンプをなさる方は、奥の広場でしてください」とある。奥は素晴しい芝の広場だ。

テントを設営して、自転車を走らせて足摺岬のおみやげ屋でビールと四万十川川海苔を買って帰る。たいして進んでいないつもりだったが、けっこう進んでいるのに驚く。

しばらくテントで休んでいると、ライダーが一人来た。彼が酒を買ってくるというので、千円を渡し、ダバダ火振なる焼酎を買ってきてもった。

この晩はライダーと一緒に飲んだ。何と珍しく同い歳だ。ダバダ火振でゲロ吐いた。

2001年8月17日(金)39番

39番は高知県最後の札所だ。きのうはへべれけに酔っていたのでよく寝むれたが、かなり酔っていたので体調がいまいちよくない。それに、起きたら入口が少し開いていたらしく、テントの中に蚊がたくさんいたのにはびっくりした。しかし、不思議なことにライダーはテントの扉を開けていたにもかかわらず、ぜんぜん蚊に食われていないという。

39番の近くはへんろ宿が多く、それを見ていたら、久しぶりに蒲団に寝たくなったので、39番の近くの老夫婦で営んでいる「島屋」というへんろ宿に泊まる。

ここは前に泊まった○○屋とはおおちがいの、サービス満点のいい宿だ。食べ物も美味しくて量もたくさんある。洗濯しようとしたら、宿のおばちゃんがしてくれた。しかも何も言っていないのに、乾燥機までかけてくれた。

ひさしぶりの宿なので手紙を書いた。とてもすてきな気分だ。

2001年8月18日(土)40番~42番

39番から40番までは一寸距離がある。島屋を出て、宿毛市街へ向ったところで、四万十大正で別れたA君と会う。これから39番に向かうのだろう。このぶんじゃあ、じきに抜かれることだろうと思っていたら知らないうちに抜かれていた。

抜かれたことに気付かないまま走っていると、途中で神戸の大学院生という女性といっしょにいるA君を発見した。なんと彼は私を抜いたばかりか、海水浴までしていたのだった。

三人で昼食を食べて同時に出発したが、ぜんぜん追い付けない。情けない話だ。途中、夕立に降られ雨宿りの後、三人別れる。といっても、私とA君は同じ方向なのだが、もうちょっと一緒には行けないので、先に行ってもらうことにする。

一人になった私は、当然のようにダラダラと進んだ。それが祟って43番の手前でタイムアップ。どこかにA君がいるかもしれないと思い、一応43番明石寺まで行ってみたがいなかった。

43番の途中、宇和町で、宇和高校の前にてわりと広い児童公園を発見したのでそこに行ってみる。とても汚い公園でやたらとゴミが落ちていたので幕営がためらわれたが、幸い暴走族などが来た形跡がないので、ここに泊まることにした。

トイレがあったがとても汚いので使う気にもならない。中国ではどんなところでもできたが、ここのトイレは汚いうえに、どういうわけかブヨの類いが便器にびっしりと着いているのである。水も使う気にならない。

幸い市街地なので、近くにレストランもスーパーもコンビニもある。ディスカウント電器店まである。テントを建て終えてしばらくして暗くなってから、電気店で電池を購入、うどんやで夕食後、寝た。

2001年8月19日(日)43番~44番

児童公園を撤営し、明石寺を打ったあと、久万へ向かう。途中、内子町にて内子座という古い歌舞伎劇場を見学した。

目的地の久万町は久万高原といい、かなり標高が高い。43番からは70キロ程だが、なかなか思うように進まない。疲れもかなりたまっているようだ。本当は45番岩屋寺から打った方が合理的だが、時間がなくなってしまったので、やむをえず43番大宝寺を打つ。ここから岩屋寺まではまだ10キロ程ある。

近くに笛ヶ滝キャンプ場というのがあるらしいので、そこを探すが見付からない。地図を眺めていると、おこのみ焼屋からおばさんが出てきて教えてくれた。

ここはキャンプ場とは名ばかりで、管理人もいないし、荒れ放題である。一応水場やトイレがあるので、なるほどキャンプ場かもしれないが、どこにも、キャンプ場とは書いていない。散歩に来たおばさんに聞くと確かにここだという。

よく観察してみると、荒れてはいるが、人工スキー場だの、こじんまりした池だのがある。どうも、観光地にしようとして失敗したらしい。町も商店などがあるものの、どことなくさびれている。

おばさんによると、今晩台風が来るという。ここは山の中なのでラジオもよく入らないが、たしかに来ているらしい。暗くなってだんだん、台風特有の生暖い風が吹くようになった。

大きなアヅマ屋があるので、テントは建てずそこに泊まることにした。後から考えればそれが失敗だった。この台風はたいへんな低速台風で、この日はこなかったのだ。私は一晩中蚊と格闘することになった。最後にはテントを張らずに、シュラフのようにもぐりこんで、寝たのだった。雨はほとんど降らなかった。

2001年8月20日(月)

朝から雨が降ったりやんだりで、どうにもこまったものである。いよいよ台風が接近しているらしい。岩屋寺の近くに古岩屋荘という国民宿舎があるので、そこに泊まろうと思って行く。しかし、国民宿舎の駐車場の隣りに巨大なバス停があり、ちょうどその時に雨が降ってきたので、雨宿りしていると、中にいた妙なオヤジが声を掛けてきた。

「もう今日はすすめませんよ。ここで泊っていったらどうです。」という。といってもまだ昼前なのだが、もともと国民宿舎に泊まるつもりだったし、ここならタダだし、台風の影響も少なくてすみそうなので、そこに泊まることにした。

国民宿舎の風呂につかり、ロビーでこのオヤジとしばらく話をした。この人はすでに一年半も回っている(逆打ちしている)行者である。もともとそうとうやんちゃしていたらしいが、今は更正して「人を救いたい」といっている。謎の行者と命名。

謎の行者によると、前に若い二人ぐみがここで酒を飲んであばれたらしい。なるほど、このロビーだったら快適に一晩明かすこともできるだろう。

2001年8月21日(火)

夕べはまったく台風を感じさせないおだやかな天気だった。19日の風はなんとなく台風を思わせるものだったが、昨晩はほとんど風も吹かず、雨も降らなかった。

ところが今日は朝から大雨だ。本格的に台風が来たらしい。それもかなりの低速台風で、一日中雨だった。風は思ったよりなかったが、それでも尋常ではない。

しかたがないので一日中シュラフで寝て過した。真夏なのにとても寒い。3シーズンシュラフを持って来たのは正解だった。しかし、銀マットを持ってきていなかったので、床のコンクリの感蝕がやたらと寒かった。

2001年8月22日(水)45番岩屋寺~51番石手寺

岩屋寺はまさにゼッペキに張り付くすばらしい景観の寺だ。本尊は不動明王。このあたりは岩肌に風化による穴が無数にあいており、とても神秘的だ。

謎の行者より一時間ほど後に出発したが、修行中の謎の行者に出くわしてしまう。修行中なので、声はかけなかった。しかし、登口に自転車を置いておいたので、気付いていたかもしれない。

本当はもっといたかったのだが、先に進むことにする。一旦19日に泊まった久万町の中心まで戻って、そこからしばらく三坂峠を登る。三坂峠には松山市を望む展望台があった。写真を撮ろうとおもってそこに立つと、足元の板がくずれた。死ぬかと思った。

あとはもうひたすらダウンヒルだ。46番はちょっと田舎だが、51番までは一気に打てる。51番の石手寺は大きな寺である。

本当はまだまだ時間があったのだが、石手寺は有名な道後温泉のすぐ近くである。国文学者としてははずせない。

300円を払って、かの有名な道後温泉に入ったら、もう幕営地を探そうなんて気はおきない。浴場の前にいた旅館の客引きおばさんにこちらから声を掛けて泊まることにする。素泊りで4000円。安いがものすごいボロ旅館だ。

2001年8月23日(木)52番太山寺~58番仙遊寺

松山市の52番、少し走って今治市の53番から57番まではいずれも街中で、ちょっと探すのにとまどった札所もあったが、順調に行けた。問題は58番の仙遊寺で、これはその名が示す通り、小高い山の中である。

57番で東京出身の歩きのおじさんに会った。何でも弘法大師のファンで何度も歩いているという。現在が茅ヶ崎市に住んでいるが、以前は広尾に住んでいたのだという。私は広尾生れだし、来る前もS君の結婚式で広尾にいたから、なんだか親近感が湧いてしばらく話をした。

すると、鬚をはやしたあやしい二人組が来た。なんだか感じの悪い二人組だ。丁寧に般若心経を上げているが、自分たちの世界をつくっている感じである。こいつらはオウムに違いないと思った。しかし、おじさんの話によると、実はこの二人はなんとあの古岩屋荘であばれた二人だった。

時間がなくなってきたので、おじさんに別れを告げると、私は仙遊寺をめざした。やっとこ仙遊寺に着き、おまいりを済ませて休憩していると、さっきのおじさんが来た。続けて二人が来たが、私は彼らを無視して、おじさんと話をしていた。

おじさんと二人で階段を下りると、さっきの二人と別の若者が一人の都合三人、私の自転車のわきで話をしていた。おじさんは、挨拶だけするとさっさと行ってしまった。

「なんか、国民宿舎であばれたらしいじゃない。」

「え、どこで聞いたんですか。」

「国民宿舎のおねえちゃんから聞いたよ。」

「なんで俺たちだって分ったんですか。」

「いや、あのおじさんから聞いたんだ。きみたち有名になってたよ。」

二人は「ヤッタおれたち有名になってるよ」と言って笑った。ちょっと腹がたったので、

「金も払わずに、旅館で酒盛してりゃ有名にもなるよ。」と言ったら、

「あれ、あそこ泊まるところだったんだあ。」などどとぼける。

そこで、私はあることに気がついた。私はなぜか古岩屋荘のパンフレットを持っていたのである。しかもそれをすぐ取り出せるところにはさんでおいたのだ。私はそれを彼らに進呈しようと思った。

「ああ、知らなかったんだ。それなら、君たちにいいものをあげよう。」

私は彼らにパンフレットを進呈した。もう一人の若者は大笑いしていたが、二人は黙ってしまった。そうだろう、目の前で奇跡がおきたのだから。かれらには私が弘法大師に見えたにちがいない。

もう一人の若者が私に聞いた。

「なんでそんなのもってるの。」

「いや、分らないんだよ。なんでこんなの取ってきたのか。なんでここまで後生大事にもってきたのか。」

それは事実だ。本当に不思議なこともあるものだ。この話、謎の行者に聞かせてあげたいなあ。

私は彼らに別れを告げ、次の国分寺に向った。もちろん、時間は過ぎているのだが、国分寺の近くに海岸があるので、そこで泊まろうと思ったのだ。

一応国分寺に行くと、駐車場に小屋があって、泊まることができそうだ。しかし、あの二人に会うのはごめんなので、予定どおり、海岸で幕営する。波の音を聞きながら寝るのはオツなものだと思ったが、だんだんこっちにせまってくる(といっても防波堤の内がわだから絶対に水はこないはずだ)ので、なかなか寝つけなかった。情けない話だ。

2001年8月24日(金) 59番国分寺

朝食にじゃこ天入りの棒ラーメンを食ったあと、海辺の公園を後にして、今治最後の札所国分寺へ行く。昨日行ったのですぐに着く。小さな寺だ。

もう八時なのでだれもいない。最後なので念入りにおまいりするが、狭いのですぐ終ってしまった。近くに国分寺塔跡があるので見学。

その後、今治市内へもどって、一路しまなみ海道へ。しまなみ海道は景色もすばらしいが、その作りもすばらしい。自転車用の道路がわざわざ作ってあるのだ。どういうことかと言うと、橋は本来高速道路だから非常に高いところにある。そのまま道をつけると、勾配が急で大変なことになるが、ママチャリでも乗ったまま登れるように、緩やかな道路を自転車用と原付用にそれぞれ別にわざわざ作ってあるのだ。これはすばらしい。

最初の来島海峡(くるしまかいきょう)大橋が最長の橋だが、そこから見た瀬戸内海は最高だ。さらに、伯方・大島追大橋を過ぎ、大三島橋を越えて大三島に到着。まだ昼過ぎだ。

とりあえず、道の駅で休憩してまわりを見ると、何と村上三島記念館なるものがある。一応書道家のはしくれとして見学する。誰もいない。

この島には、もっと有名なものがある。大山祇神社である。古典にもよくでてくる神社で、宝物館には莫大な国宝、重文がある。なかでも、藤原佐理の大山祇神社扁額には感動した。佐理には次のような説話がある。佐理が長徳三年太宰府から帰京する途中、伊予国の大三島沖にさしかかったとき、何事もないのに突然船が止まってしまった。その夜、佐理の夢に大三島明神が翁の姿で現れ、社に額が無いので書いて欲しいと言った。次の日、佐理は大三島に上陸し額を書いたところ、無事に京都に着くことができたという(「大鏡」巻二実頼伝、「十訓抄」第十、「古今著聞集」巻七)。よもやこの扁額が現存するとは思わなかったのである。期待に反しないすばらしい扁額だった。

この日は島を半周して、多々良温泉につかり、道の駅に野宿することにする。この島のキャンプ場は少々高いのだ。テントは張らず、すばらしい景色のなかで寝た。海風が涼しく、あれほど悩まされた蚊もいない。素敵な夜だった。

2001年8月25日(土)

いよいよ帰る日がきた。しまなみ海道は本州に近付くにつれて、どうも自転車に不親切になるようだ。

それにしても、このあたりはサイクリングしている人は多いはずなのに、何故かジロジロと見られる。よく考えたら、私はまだおへんろ姿だった。ここはもうへんろ道ではない。

しかし、輪袈裟はともかく、暑いので菅笠は脱げない。そのまま尾道まで行った。

最後の尾道大橋では自転車が走れる車線がなくなってしまった。途中、「自転車はフェリーを利用してください」と再三書いてあった理由がわかった。古い橋だからしかたないのかもしれないが、この橋はしまなみ海道唯一のクズ橋だ。

尾道で食った刺身定食は最高にうまかった。ここにしかない、乾物をおみやげに買っていった。

尾道で荷物を送り、軽くなったので、気分がよくなり、まだ走れるとばかりに福山までサイクリングした。なかなか乗りごたえのある距離だったが、途中、福山自動車時計博物館なるものによっていった。

この博物館は男の子なら、もう入ったら最後出てこられない。その名の通り、自動車と時計の博物館なのだが、古道具のたぐいが所狭しと並んでいる。しかも、車には乗ることができるのだ。

さらにすばらしいのは、そこに展示されているのが、所謂名車ではなく、40年代に普通に走っていた自家用車がほとんどなのだ。スバル360やらクラウンやらダイハツミゼットやらに乗れるのだ。昔の車って狭かったんだなと実感。

4時ごろ、モールトン(私の自転車)を輪行袋につめて新幹線に乗る。東京までまだ5時間はあるが、自転車旅行をしてきた身にしてみると、旅はひとまず終ったんだなと実感する。

自転車お遍路日記2(2002年春)に続く。

1)
たぶん40代後半ぐらい。
2)
余談だが、この人、出発日を間違えて、帰るに帰れず家の近所の公園でキャンプしたことがあると言っていた。
3)
ほとんど奪ったようなものだが
4)
この時、万一ホームレスになったら四国に来ようと思った
5)
まだ慣れていなかったからしょうがないんだけど、諦めるのが早すぎた。
6)
自転車が通れる道ではないらしい
7)
これが失敗。この道も自転車には不向きで、遠回りするのが正解だった
8)
たぶんそんなことはない
9)
この人とはこの時以来会っていないが、今も年賀状のやりとりをしている。
wmr/bikehenro1.txt · 最終更新: 2014/06/17 04:36 by Satoshi Nakagawa
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