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目次
打聞集
第6話 大師五鈷を投げ給ふ事
校訂本文
昔、弘法大師1)、唐に渡り給ひ、真言を恵果阿闍梨に習ひ給ひて、得給ひたりける。五古を、唐(もろこし)の岸に立ち給ひて、日本の方に向ひて、「われ、定に入りて、弥勒の御世にてあるべき所に、この五鈷2)落ちむ」と言ひて、投げ給ひければ、飛びて雲中に入る。
この国に帰りおはしまして、王(をほやけ)に伝得仏法真言の事など3)申し給ひて、東寺真言弘(ひろ)めなど持ちて、年、漸々老ひ給ふほどに、「わが投ぐる五鈷、落ちたらむ所尋ねむ」と思ひて、所々の山に見給へど無し。
紀伊国の伊都郷、高野(たかの)の山4)におはしたれば、年老いたる翁(をきな)、白毛馬に乗りて、山麓(やまふもと)におはして、鷹を使ひ往て、犬養ひ具したり。この鷹養、大師を問ひ奉る。「何(な)ぞの聖人の、かくては往き給ふぞ」と言へば、「唐にて、入定すべき所に、この五鈷は落つとて、投げし所、求め往くなり」といらへ給ふ。鷹養のいはく、「その所は、おのれこそ知りたれ」と、「おのれが馬の尻に立ちていませ。教へ奉(たいまつ)らむ」と言へば、「いと嬉しきことなり」と言ひて、馬の尻に立ちて往く。
山中に百丁ばかり入りぬ。山中の中は平くたち5)を臥せたるやうにて、めぐりに峰立ち上(のぼ)れり。檜、いはむかたなく、大きなる竹林の様に、生ひ並みたり。一本の檜の中、大きなる方のまたに、五鈷うち立てたり。喜び悲しぶことかぎりなし。これを定の所とは知りぬ。
この鷹養の翁、「聖人、ここに住み給はば、おのれは守り奉る身とあるべし」と言へば、大師、鷹養の6)翁に、「そこは誰(たれ)とか申す」と問ひ給へば、「丹生(にふ)の明神となむ7)申す」と言ひて、二人ながら、かい消つやうに失す。
大師、帰りて弟子ども具して、寺を造り、定の所も造りて、窟(ほら)を開きつつ、御髪を剃り、御装を着せかへ奉りなどしける。絶□□る8)こともせで、般若僧正9)の宗長者にておはしける折、この大師には曽孫(ひひご)弟子になむ当り給ひける、かやうに参り給ひて、この窟(ほら)を開け給ひたりければ、霧の立ちて、つつ闇(やみ)にて、物も見えざりければ、しばしばかりありて、霧の居るを見る。御装の朽ちたりけるに、風の入りて吹きければ、塵(ちり)になりて吹き立てられけるが、霧とは見るなりけり。
□り10)、静まりて後に、大師は見え給ひける。御髪は一尺ばかり生ひておはしければ、水沐浄衣を着□む。御髪は新かふ剃りして、剃り奉り給ひける。水精念珠の朽ちて絶えにければ、御前に散りたりけるを、取り聚(あつ)めて、緒(を)うるわしうすげて、御手に繋け奉り給へりけり。御装なむいみじく浄くしまうけて着奉り給ひて、窟掘りふたぎ給ふとてなむ、今始めて別れむやうに、不覚に泣き給ひける。
其より後は、怖れ奉りて、開くる人なし。ただし、人の参りたる折は、上なる堂の戸、少し開き、山にもの鳴る折は、鐘を打つ音など、種々あやしきことあり。鳥の音□ぬ11)山なり。つゆもの怖しからず。坂、一・二丁ばかり下りて、丹生(にふ)の高野(たかの)の二つの明神は鳥居を並べてなむおはすめる。希有(けう)なる所とて、今に人参る。女人は登らず。
翻刻
昔弘法大師唐渡給真言恵(けい)果阿闍梨に習給て得給たりける五古を唐(もろこしの)岸に 立給て日本方に向て我定に入て弥勒の御世にて有へき所に此五古落と云て 投給けれは飛雲中に入此国帰坐て王(をほやけ)に伝得仏法真言の事□と申給て 東寺真言弘めなと持て年漸々老給程に我投五古落たらむ所尋と思 て所々の山に見給と无紀伊国の伊都(と)郷たかのの山にをはしたれは年老をきな白毛馬に 乗て山ふもとにをはして鷹をつかひ往て犬養具たり此鷹養大師を問奉るなそ の聖人のかくては往給そと云は唐にて入定すへき所に此五古は落とて投し所求 往なりといらへ給鷹養の云く其所はをのれこそ知たれとをのれか馬尻に立ていませ をしへたいまつらむと云はいとうれしき事なりと云て馬尻に立て往山中に百丁許入ぬ 山中の中は平くたちを臥たる様にてめくりに峯たちのほれり檜いはむ方なく大なる 竹林の様に生並たり一本檜中大る方またに五古うち立てたり喜悲事限无 此を定の所とは知ぬ此鷹養のをきな聖人此に住給はをのれは守り奉る 身とあるへしと云は大師鷹養□をきなにそこはたれとか申と問給はにふの明神と/d16
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/16
□む申すと云て二人なからかいけつやうに失大師帰て弟子共具て寺造定の 所も造て窟(ほら)を開つつ御髪をそり御装をきせ返奉なとしける絶□□る事 もせて般若僧正の宗長者にてをはしけるをり此大師にはひゐこ弟子になむあたり 給ひけるかやうに参給て此窟を開給たりけれは霧の立てつつやみにて物も見 えさりけれはしはし許有て霧の居るを見御装のくちたりけるに風の入て吹き けれはちりに成て吹立られけるか霧とは見る也けり〓りしつまりて後に大師は見え 給ける御髪は一尺許生て御坐けれは水沐浄衣を着□む御髪は新かふそり して剃奉り給ひける水精念珠のくちて絶にけれは御前に散たりけるを 取り聚て緒うるわしうすけて御手に繋奉給へりけり御装なむいみしく浄し まうけて着奉給て窟ほりふたき給とてなむ今始て別れむ様に不覚に泣給ける 其より後は怖奉て開る人无し只し人の参たるをりは上なるたうの戸すこし開 山に物なるをりは鐘を打音なと種々あやしき事有鳥の音□不ぬ山なり つゆ物怖からす坂一二丁許下てにふのたかのの二の明神は鳥居を並てなむ をはすめるけふなる所とて于今人参女人は不登/d17