とはずがたり
巻2 33 御所御寝の間に筒井の御所の方へちと用ありて出でたるに・・・
校訂本文
御所御寝(ぎよしん)の間に、筒井の御所の方へ、ちと用ありて出でたるに、松の嵐も身にしみ、人まつ虫の声も、袖の涙に音(ね)を添ふるかと覚えて、待たるる月も澄みのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりも、ものあはれなる心地して、「御所へ帰り参らん」とて、山里の御所の夜(よ)なれば、みな人静まりぬる心地して、掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾の中より、袖をひかゆる人あり。まめやかに化物の心地して、荒らかに、「あな、かなし」と言ふ。「夜声には木霊(こだま)といふ物のおとづるなるに。いとまがまがしや」と言ふ御声1)は、「さにや」と思ふも恐しくて、何とはなく引き過ぎむとするに、袂はさながらほころびぬれども、放ち給はず。
人の気配もなければ、御簾の中に取り入れられぬ。御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども、かなはず。「年月思ひそめし」などは、なべて聞き古りぬることなれば、「あな、むつかし」と思ゆるに、とかく言ひ契り給ふも、なべてのことと耳にも入らねば、ただ急ぎ参らむとするに、「夜の長きとて、御目覚まして御尋ねある」と言ふにことづけて、立ち出でんとするに、「『いかなる暇をも作り出でて帰り来む』と誓へ」と言はるるも、逃るることなければ、四方(よも)の社(やしろ)にかけぬるも、誓ひの末恐しき心地して、立ち出でぬ。
また九献まいるとて、人々参りてひしめく。なのめならず酔(ゑ)はせおはしまして、若菊をとく帰されたるが念なければ、明日、御逗留ありて、今一度召さるべしと御気色あり。承りぬるよしにて後、御心行きて、九献ことに参りて、御夜(よる)になりぬるにも、うたた寝にもあらぬ夢の名残は、うつつとしもなき心地して、まどろまで明けぬ。
翻刻
みな御しこうあす一とに還御なといふさたなり御所 御しんのまにつついの御所のかたへちとよう有ていてたる に松のあらしもみにしみ人まつむしのこゑもそての 涙にねをそふるかと覚てまたるる月もすみのほり ぬるほとなるにおもひつるよりもものあはれなるここち して御所へかへりまいらんとて山さとの御所のよなれは みな人しつまりぬる心ちしてかけゆまきにてとをる につついの御所のまへなる御すの中より袖をひかゆる人 ありまめやかにはけ物の心地してあららかにあなかな しといふ夜こゑにはこたまといふ物のをとつるなるに いとまかまかしやといふ御こゑはさにやとおもふもおそろ/s104l k2-79
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/104
しくてなにとはなくひき過むとするにたもとはさなから ほころひぬれともはなちたまはす人のけはひもなけれは 御すの中にとりいれられぬ御所にも人もなしこはいかにこはいかに と申せともかなはすとし月おもひそめしなとはなへて ききふりぬる事なれはあなむつかしとおほゆるにと かくいひちきり給もなへての事とみみにもいらねは たたいそきまいらむとするに夜のなかきとて御め さまして御たつねあるといふにことつけてたちいてん とするにいかなるひまをもつくり出てかへりこむとちかへと いはるるものかるる事なけれはよものやしろにかけぬ るもちかひの末おそろしき心ちして立いてぬまた/s105r k2-80
九こんまいるとて人々まいりてひしめくなのめならすゑ はせおはしましてわかきくをとくかへされたるかねんな けれはあす御とうりう有ていま一とめさるへしと御気 色ありうけ給はりぬるよしにて後御心ゆきて九こん ことにまいりて御よるに成ぬるにもうたたねにもあらぬ夢の なこりはうつつとしもなき心ちしてまとろまてあけぬ/s105l k2-81