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12月27日 大津〜浦戸
校訂本文
二十七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京(きやう)にて生まれたりし女子(をんなご)、国にてにはかに失せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、何事もいはず。京へ帰るに女子のなきのみぞ悲しび恋ふる。ある人々もえ堪へず。
この間に、ある人、書きて出だせる歌
都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
またあるときには、
あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける
と言ひける間に、鹿児(かこ)の崎といふ所に、守(かみ)の兄弟(はらから)、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯に降りゐて、別れがたきことを言ふ。守の館(たち)の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには言はれほのめく。
かく別れがたく言ひて、かの人々の口網(くちあみ)も諸持(もろも)ちにて、この海辺にて担ひ出だせる歌、
をしと思ふ人やとまるとあし鴨のうち群れてこそわれは来にけれ
と言ひてありければ、いといたくめでて、行く人の詠めりける、
棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
と言ふ間に、舵取り、もののあはれも知らで、おのれし酒を食らひつれば、はやく去(い)なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。
この折にある人々、折節につけつつ、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしきいふ。またある人、西国(にしくに)なれど甲斐歌(かひうた)など言ふ。かく歌ふに、「舟屋形(ふなやかた)の塵(ちり)も散り、空行く雲もただよひぬ」とぞ言ふなる。
今宵、浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々、追ひ来たり。
翻刻
廿七日おほつよりうらとをさしてこ きいつかくあるうちに京にてうまれ たりしをんなこくににてにはかに うせにしかはこのころのいてたちいそ きをみれとなにこともいはす京へ かへるにをんなこのなきのみそかな/kd-9l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/9?ln=ja
しひこふるあるひとひともえたへす このあひたにあるひとかきていたせる うた みやこへとおもふをもののかな しきはかへらぬひとのあれはなり けりまたあるときには あるものと わすれつつなほなきひとをいつら ととふそかなしかりけるといひける あひたにかこのさきといふところに かみのはらからまたことひとこれ/kd-10r
かれさけなにともておひきていそ におりゐてわかれかたきことをいふ かみのたちのひとひとのなかにこの きたるひとひとそこころあるやうには いはれほのめくかくわかれかたくいひ てかのひとひとのくちあみももろも ちにてこのうみへにてになひいたせる うた をしとおもふひとやとまるとあ しかものうちむれてこそわれはきに/kd-10l
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100421552/10?ln=ja
けれといひてありけれはいといた くめててゆくひとのよめりけるさを させとそこひもしらぬわたつみのふか きこころをきみにみるかなといふあ ひたにかちとりもののあはれもしらて おのれしさけをくらひつれははや くいなむとてしほみちぬかせもふき ぬへしとさわけはふねにのりなむ とすこのをりにあるひとひとをりふ/kd-11r
しにつけつつからうたともときににつ かはしきいふまたあるひとにしくに なれとかひうたなといふかくうたふに ふなやかたのちりもちりそらゆくく ももたたよひぬとそいふなるこよひ うらとにとまるふちはらのときさね たちはなのすゑひらことひとひとおひ きたり/kd-11l