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沙石集

巻4第7話(35) 入水の上人の事

校訂本文

ある山中に上人ありけり。道心深くして、憂き世に心をとどめずして、「急ぎ極楽へ参らん」と思ひけるあまり、「入水して死なむ」と思ひて、同行を語りて、船に乗りて、湖に漕ぎ出でぬ。

この上人、申しけるは、「臨終は一期(いちご)の大事なり。し慣れたることだにも、誤りあり、不覚することなり。往生の大事、臨終の作法、いまだ得ざることなれば、いかがとおぼつかなし。それに付けては、水に入りて後も、いかなる妄念・執心もあり、命も惜しく、余念もおこらば、往生不定なり。かかる心ありて、浮き出でたくば、縄を引くべし。さらば、引き出だし給へ」とて、縄を脇にかけて、念仏数返申して、飛び入りぬ。

あはれに思ふほどに、縄を引きければ、引き出だしつ。濡れ濡れとして上がりぬ。「水の中にて苦痛ありて、妄念おこりつれば、『この心にては、よも』と思ひて上がりたり」とぞ言ひける。さて、心得ず思えけれども、今度(こたび)は帰りぬ。

また、日ごろ経て、「今度はさりとも」とて、船に乗りて出でぬ。先のごとくに飛び入りぬ。また縄を引きければ、また引き上げぬ。その後、両三度ならして、また出でぬ。

同行、心得ず思えて、「例のはかばかしからじ」と思ひけるほどに、今度は飛び入りて、縄も引かず。さるほどに、空の中に音楽聞こえ、波の上に紫雲たなびきて、めでたかりければ、随喜の涙かぎりなし。

まことに、名聞我相をもて、往生の大事、遂(と)ぐべからず。真実の信心、願行の力にて、素懐(そくわい)は遂ぐべきものなり。頸縊り上人1)よりは、よくよくならして往生しけること、心かしこくこそ思え侍れ。

翻刻

  入水上人事
或山中ニ上人有ケリ道心フカクシテウキ世ニ心ヲトトメスシテイソ
キ極楽ヘマイラント思ケルアマリ入水シテ死ト思テ同行ヲ語テ
船ニ乗テ湖ニコキイテヌ此上人申ケルハ臨終ハ一期ノ大事
ナリシナレタル事タニモアヤマリ有不覚スル事ナリ往生ノ大
事臨終ノ作法イマタヘサル事ナレハイカカトヲホツカナシソレニ
付テハ水ニ入テ後モイカナル妄念執心モアリ命モヲシク餘念
モヲコラハ往生不定也カカル心アリテウキ出タクハ縄ヲヒクヘ
シサラハヒキ出シ給ヘトテナワヲワキニカケテ念仏数返申テ飛
ヒ入ヌ哀ニ思程ニナハヲ引ケレハ引出シツヌレヌレトシテアカリヌ
水ノ中ニテ苦痛アリテ妄念ヲコリツレハ此心ニテハヨモト思テ/k4-146l

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=145&r=0&xywh=-268%2C396%2C5841%2C3451

アカリタリトソ云ケルサテ心エス覚ヘケレトモ今度ハ帰ヌ又日
比ヘテ今度ハサリトモトテ船ニ乗テ出ヌサキノ如クニトヒ入ヌ
又縄ヲヒキケレハ又ヒキアケヌ其後両三度ナラシテ又出ヌ同
行心得ス覚テ例ノハカハカシカラシト思ヒケル程ニ今度ハトヒ
入テ縄モヒカスサルホトニ空ノ中ニ音楽キコヘ波ノ上ニ紫雲
タナヒキテ目出カリケレハ随喜ノ涙カキリナシ実ニ名聞我相
ヲモテ往生ノ大事トクヘカラス真実ノ信心願行ノ力ニテ素
懐ハトクヘキモノナリクヒククリ上人ヨリハ能々ナラシテ往生シケ
ル事心カシコクコソ覚ヘ侍レ/k4-147r

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=146&r=0&xywh=-217%2C371%2C5841%2C3451

1)
前話参照。
text/shaseki/ko_shaseki04b-07.txt · 最終更新: 2018/12/06 12:28 by Satoshi Nakagawa
CC Attribution-Share Alike 4.0 International
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