唐鏡 第三 漢高祖より景帝にいたる
14 漢 孝文帝(4 大将軍周亜夫)
校訂本文
この御時1)、匈奴、京(みやこ)へ入るを防がむとて、将軍を道々へ分かちつかはす。劉礼といふ者をば、覇上といふ所へやる。徐厲(じよれい)をば棘門(きよくもん)へやる。周亜夫をば細柳(さいりう)へやる。
その後に、帝(みかど)、「城のありさまを御覧ぜん」とて、その所へ行幸し給ふに、覇上・棘門の城には驚き騒ぎて、武士ども、帝の御迎へに参り出でさせ給へば、御送りに参る。
細柳の城に行幸なりたれば、武士ども直甲(ひたかぶと)にて、ただ今ことにあはむずる気色(けしき)して、たゆみたる心なし。帝の先陣、城の木戸2)に至りたれども入れず。先陣の人の云はく3)、「帝王すでに行幸し給ふ。こはいかなることにか」。城門を守る者のいはく、「4)城の中には、大将軍の命(めい)を聞く。天子の命を聞くことなし」となん。
それにほどもなく行幸なりたり。なほ入れ奉らざれば、御門、使(つかひ)をして、璽(しるし)を持たせて、「大将軍のもとへ軍兵のありさま見むとて行幸したるなり」とのたまへば、大将軍、次第に伝へ仰せて、陣々の門を開く。
行幸供奉の者ども、この騒がしく入るを見て、武士どものいはく、「大将軍のたまはく、『城の内は走り騒ぐべからず』となむ。行幸の次第いはれなし」と言ふ。帝、これを聞こし召して、「おのおの、しづまれ」とて、やうやうづつ入り給ふ。
大将軍周亜夫、打物(うちもの)を取りて、気色変りして申さく、「『甲冑5)の士は拝せず』と言ふ。されば、軍令をもちて見(まみ)え奉らむ」と申すに、帝、「まことにさも」と思して、気色(けしき)ひきつくろひて、人をして言はしむらく6)、「皇帝、つつしんで将軍をねぎらふ」と言ひて、礼をなして出で給ひぬ。
供奉の者ども、みなき驚くに、帝のたまはく、「これ、まことの将軍なりけり。さきの覇上・棘門の軍(いくさ)、まことに児(ちご)どもの戯れのごとくなり。その将軍、やすやす襲ひつべかりけり。周亜夫におきては犯すべからず」とて、勧賞(けんじやう)ありけり。
その上に太子に語り給はく、「もし、おのづから事もあらば、周亜夫を将軍と頼むべきなり」と仰せられけり。
翻刻
ことをしらさりつると云この御時匈奴京(ミヤコ)へいるを/s86l・m157
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/86
ふせかむとて将軍をみちみちへわかちつかはす劉(リウ) 礼(レイ)と云ものをは覇上と云所へやる徐厲(シヨレイ)をは棘門(キヨクモン)へや る周亜(シウア)夫をは細柳へやる其後に御かと城のあり さまを御らむせんとてその所へ行幸し給に覇上棘 門の城にはおとろきさはきて武士とも御かとの 御むかへに参りいてさせ給へは御をくりにまいる細(サイ) 柳(リウ)の城に行幸なりたれは武士ともひたかぶと にてたた今ことにあはむするけしきしてたゆ みたるこころなし御かとの先陣城の木戸(イキワ)に至 りたれともいれす(イ先陣ノ人ノ云)帝王すてに行幸し給ふこはい/s87r・m158
かなることにか城門をまもるもののいはく先陣の 人の云く(イナシ)城の中には大将軍の命をきく天子の 命をきく事なしとなんそれにほともなく行幸 なりたりなをいれたてまつらされは御門つか ひをしてしるしをもたせて大将軍のもとへ軍兵の あり様みむとて行幸したる也と宣へは大将軍 次第に伝(ツタヘ)仰て陣々の門をひらく行幸供奉のもの共 このさはかしく入をみて武士とものいはく大将軍 のたまはく城のうちははしりさはくへからすとなむ 行幸の次第いはれなしと云御門これをきこし食/s87l・m159
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/87
て各しつまれとてやうやうつつ入給ふ大将軍周亜夫(シウアフ) うちものを取て気(ケイ)色かはりして申さく甲冑(カイチウ)の 士は拝せすと云されは軍令をもちてまみえたてま つらむと申に御かとまことにさもとおほしてけし きひきつくろひて人をしていはしむ(ラクイ)うて皇帝つ つしむて将軍をねきらふといひて礼をなしていて 給ぬ供奉のものともみなきおとろくにみかとの たまはくこれまことの将軍なりけりさきの覇 上棘門のいくさまことにちことものたはふれのこと くなりその将軍やすやすおそいつへかりけり/s88r・m160
周亜夫におきてはをかすへからすとて勧賞(ケンシヤウ)あり けりその上に太子にかたり給くもしをのつから事 もあらは周亜夫を将軍とたのむへきなりとお ほせられけり/s88l・m161