十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事
10の78 また賞あるべからんことあながちにとどめられても詮なかるべし・・・
校訂本文
また、賞あるべからんこと、あながちにとどめられても、詮(せん)なかるべし。
承平のころ、平将門、東国にて謀叛おこしたりけるに、常陸掾平貞盛・下野押領使藤原秀郷らをつかはして、召されけれども、かなはざりければ、参議民部卿忠文1)を大将軍として、舎弟刑部少輔仲舒2)を副将軍として下されけるに、いまだ下りつかぬさきに、将門、討たれにければ、道より帰り参りにけり。
さて、貞盛・秀郷らに勧賞を行はれし時、忠文も同じく蒙るべきよし、申しければ、陣の定めありけり。その時、小野宮殿3)は一の座にて、「『疑しきことをば、行なはざれ』ともいふ文あり」とて、「沙汰なくしてありなん」と申されけるに、九条殿4)は次の座にて、「下着以前に、逆徒の亡ぶるは、さることなれども、勅定にしたがふ忠文、いかでか捨てられん。『刑の疑はしきは行はざれ、賞の疑はしきは許せ』とこそ候へ」と、曲礼5)の文を引きて申されけれども、さきの義につきて、さてやみにけり。
しかれども、忠文、その御詞かしこまり申して、富家の領をば、券契を書きて、九条殿に奉りにけり。それより、代々伝へて、一の人の御領なり。小野宮殿をば恨み奉りて、「子孫を失はん」と誓ひて、失せられけり。
また、大江公資、大外記を所望しける時、僉議ありて、拝任よろしかるべきよし、諸卿定め申されけるに、かの大臣(おとど)6)の意見にいはく、「公資は、相模を懐抱して、秀歌案ぜんほどに、公事を欠如云々」。人々、笑はれけり。その言葉によりて、本意をとげず。たびたび、かやうのことありけるにや。
相模は冷泉院7)の御時の一品宮8)の女房、もとの名は乙侍従なり。公資、相模守たるときの妻とするによて、その号あり。夫婦ともに歌詠みなりけり。
翻刻
奉リテ事ナカリケリ、又賞アルヘカラン事アナカチ/k138
ニトトメラレテモ詮ナカルヘシ、 八十 承平ノ比平将門東国ニテ謀叛ヲコシタリケルニ、常 陸掾平貞盛下野押領使藤原秀郷等ヲツカ ハシテ被召ケレトモ叶サリケレハ、参議民部卿忠文ヲ 大将軍トシテ、舎弟刑部少輔仲舒ヲ副将軍ト シテ被下ケルニ、イマタ下リ付ヌサキニ、将門ウタレ ニケレハ、道ヨリ帰参ニケリ、サテ、貞盛秀郷等ニ勧 賞ヲ被行シ時、忠文モ同蒙ルヘキヨシ申ケレハ陣ノ 定メ有ケリ、其時小野宮殿ハ一ノ座ニテ、疑シキ事 ヲハヲコナハサレトモ云文有トテ、無沙汰シテ有ナント/k139
被申ケルニ、九条殿ハ次ノ座ニテ下着已前ニ逆徒ノ ホロフルハサル事ナレトモ、勅定ニ随フ忠文争捨ラレ ン、刑ノウタカハシキハ行サレ、賞ノ疑シキハユルセトコソ 候ヘト、曲礼ノ文ヲ引テ被申ケレトモ、サキノ義ニ付 テサテヤミニケリ、シカレトモ忠文其御詞畏申テ、富家 ノ領ヲハ券契ヲカキテ九条殿ニ奉ニケリ、ソレヨリ代 々伝テ、一ノ人ノ御領ナリ、小野宮殿ヲハ恨ミ奉リテ、 子孫ヲ失ハント誓テ失ラレケリ、 八十一又大江公資大外記ヲ所望シケル時、僉議有テ拝任 宜カルヘキヨシ諸卿定申サレケルニ彼ヲトトノ意見ニ/k140
云ク、公資ハ相模ヲ懐抱シテ秀哥案センホトニ公事 ヲ闕如云々人々ワラハレケリ、其詞ニ依テ本意ヲトケ ス、度々加様ノ事有ケルニヤ、相模ハ冷泉院御時ノ一品 宮ノ女房、モトノ名ハ乙侍従也公資相模守タルトキ ノ妻トスルニヨテ其号アリ、夫婦トモニ哥ヨミナリ ケリ、/k141