text:jikkinsho:s_jikkinsho10-27
十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事
10の27 和邇部の用光といふ楽人ありけり・・・
校訂本文
和邇部の用光1)といふ楽人ありけり。土佐の御船遊びに下りて、上りけるに、安芸国なにがしの泊にて、海賊押し寄せたりけり。
弓矢の行方知らねば、防ぎ戦ふに力なくて、「今は疑ひなく殺されなんず」と思ひて、篳篥(ひちりき)を取り出でて、屋形の上に居て、「あの党や。今は沙汰に及ばず。とくなにものをも取り給へ。ただし、年ごろ思ひしめたる篳篥の、『小調子』といふ曲、吹きて聞かせ申さん。『さることこそ、ありしか』と、のちの物語にもし給へ」と言ひければ、むねとの、大なる声にて、「主(ぬし)たち、しばし待ち給へ。かく言ふことなり。もの聞け」と言ひければ、船を押さへて、おのおの静まりたるに、用光、「今はかぎり」と思えければ、涙を流して、めでたき音を吹き出でて、吹きすましたりけり。
をりからにや、その調べ、波の上に響きて、かの潯陽江のほとりに、琵琶を聞きし昔語りにことならず。海賊、静まりて、いふことなし。よくよく聞きて、曲終りて、先の声にて、「君が船に心をかけて、寄せたりつれども、曲の声に涙落ちて、かたさりぬ」とて、漕ぎ去りぬ。
猛き武士(もののふ)の心をなぐさむること、和歌にはかぎらず。これら、みな管絃の徳なり。また、このことは鬼神の所感にあらざれども、命を助くること厳重によりて、ついでに記し申す。
翻刻
廿七和邇部ノ用光ト云楽人有ケリ、土佐ノ御船遊ニ下テ 上ケルニ、安芸国ナニカシノ泊ニテ、海賊押ヨセタリケ/k65
リ、弓矢ノユクエ知ネハ防戦ニ無力テ、今ハ無疑コロサレ ナンスト思テ、篳篥ヲ取出テ、ヤカタノ上ニヰテ、アノ 党ヤ今ハサタニ不及、トク何物ヲモ取給ヘ、但年来 思シメタル篳篥ノ小調子ト云曲、吹テ聞セ申サン、サル 事コソ有シカト、後ノ物語ニモシ給ヘト云ケレハ、宗トノ 大ナルコエニテ、ヌシタチシハシ待給ヘ、カク云事ナリ物 キケト云ケレハ、船ヲヲサヘテ各シツマリタルニ、用光今ハ 限ト覚エケレハ、涙ヲ流テ目出キ音ヲ吹出テ、吹ス マシタリケリ、オリカラニヤ、其シラヘ波ノ上ニヒヒキテ彼尋 陽江ノ辺ニ琵琶ヲ聞シ昔語ニ異ナラス、海賊シツマリ/k66
テ云事ナシ、能々聞テ、曲終テ、先ノ声ニテ、君カ船ニ心 ヲカケテヨセタリツレトモ、曲ノ声ニ涙落テカタサリヌ トテ、コキサリヌ、タケキモノノフノ心ヲナクサムル事、和 哥ニハ不限、此等皆管絃ノ徳也、又此事ハ鬼神ノ所感 ニアラサレトモ、命ヲタスクル事厳重ニヨリテ次ニシル シ申、/k67
1)
和邇部用光
text/jikkinsho/s_jikkinsho10-27.txt · 最終更新: 2020/06/20 13:03 by Satoshi Nakagawa