十訓抄 第七 思慮を専らにすべき事
7の序 ある人いはく人は高き賤しきをいはずものの心つかば・・・
校訂本文
思慮を専らにすべき事
ある人いはく、人は高き賤しきをいはず、ものの心つかば、若くより主に仕へて、私をかへりみ、家起し、身を立つる道をよく案じて、なにごとにつけても、身を安くせず、箕裘の業を宗として、その方の営みをあひはげむべし。
愚なるたぐひ、親のあまやかし、乳母のもてなすに随ひて、いつとなくかからむずる1)と思ひて、なりたたむ末のこともわきまへぬなり。
また、親もあひ添へて、愛子に咎(とが)や忘るらむ、後の毒をかへりみず、その子を教へせせがまぬだに不便なるに、せめてのいとほしさのあまりには、「人の報ひは、来たるものなれば、かせぐによらず、能も無益なり。今あるやうもありなん、われありて、あらむかぎりは、『わびし』と思はで、思ふさまなれ」とさへ、荒涼のことを言ひ知らせつれば、さらぬだに、心は悪しき方に引くものなれば、「げに、さり」と思ひて、いかが手にもかからず、悪(わる)き友達を語らひ、酒盛りをのみ好み2)、博奕に心を入るるほどに、とりどころなき徒者に生ひたるなり。
これも、親も子も、思ひはかりなきより、あることなり。かかるもの、たまたま宮仕へを思ひ立つとも、さる振舞ひをするうへは、心に入るる主もなし。仏神は広く衆生を哀れみ給へども、不信の者は利生にあづかること少なく、主人はあまねく使はれ人をはぐくめども、不用のともがらには、恩顧ほどこしがたし。
しかれば、おほかたの道理、さることなれども、したる所作もなくて、そらに果報を期せんこと、おほきに不定のはからひなり。かやうのことを言ふ者は、心のいたりてものくさく、性の極めて不覚なるかいたすところなり。
まづ、あるべからむ振舞ひを用意して、そのうへ果報を待つは、流に棹ささむごとし。「漸見湿土泥、決定知近水」とこそ、『法華経』にも説かれたれば、営むかたにつきて、さまざまの願望を満つべきことと見えたり。乾燥の土の中より、ただ一度に水を得ることは、かたかるべし。
おのづから、また、無能、不忠の者も、良きためしもあれども、それは前生の宿善、厚きにこたへて、あるやうこそはあらめ。「うちまかせたるならひ」と頼まむこと、鵜の真似する烏に似たり。株を守る愚夫に異ならず。
余呉の海の仙人の下界の人にともなひ、水の江の浦島子が蓬莱へ行きたりけん昔語をば、世の常のことと思ふべきにや。少は無に処するいはれなり。顔回は賢者なれども、不孝にして早く死し、盗跖、賊徒なれども、寿をもて終へけるは、ことはりの外なれば、誰は誰か、なべてためしと信ずべきや。
楽天3)、書き給へることあり、
去者逍遥来者死
乃知禍福不天為
これは、秦の李斯らが心を嫌ひ、漢の園公4)らが振舞ひを讃めたる、古調四韻のうちの落句なり。
かかるにつけても、「三界唯一心也、心の外に別の法なかりけり」と思ゆ。楽天、また文殊の化身なれば、いかが信ぜざらむ。ただし、いまだ来らざらむ報を、いらいらしく願ひ求めて、聞きいでごとなどすべからず。
よろづにつけて、よく思ひはかりをめぐらすべきなり。
翻刻
第六可専思慮事 或人云、人ハ高キ賤キヲイハス、物ノ心ツカハ、ワカクヨリ主 ニ仕テ、私ヲカヘリミ、家ヲコシ身ヲ立ル道ヲ、ヨク案 シテ、何事ニ付テモ、身ヲ安クセス、箕裘業ヲ宗 トシテ、其方ノ営ヲ相ハケムヘシ、愚ナル類ヒ、オヤノアマ ヤカシ、メノトノモテナスニ随テ、イツトナクアアラムスルト 思テ、ナリタタムスエノ事モワキマヘヌ也、又親モアヒソヘ テ愛子ニ咎ヤワスルラム、後ノ毒ヲカヘリミス、其 子ヲ教ヘセセカマヌタニ不便ナルニ、セメテノ糸惜サノ/k104
アマリニハ、人ノ報ハキタル物ナレハ、カセクニヨラス、能モ 無益也、今アルヤウモ有ナン、我アリテアラムカキリ ハ、ワヒシト思ハテ、オモフサマナレトサヘ荒涼ノ事ヲ 云シラセツレハ、サラヌタニ心ハアシキカタニヒク物ナレ ハ、ケニサリト思テ、イカカ手ニモカカラス、ワルキ友達 ヲカタラヒ、酒ヲモリヲノミコノミ、博奕ニ心ヲ入 ルル程ニ、トリトコロナキ徒者ニオヒタルナリ、是モ 親モ子モ思ハカリナキヨリアル事也、カカルモノタマタマ 宮仕ヲ思立トモ、サル振舞ヲスルウヘハ、心ニ入ル主モ ナシ、仏神ハヒロク衆生ヲ哀給ヘトモ、不信ノモノハ 利生ニ預ル事スクナク、主人ハアマネクツカハレ人ヲ/k105
ハククメトモ、不用ノトモカラニハ、恩顧ホトコシカタシ、然ハ 大方ノ道理サル事ナレトモ、シタル所作モナクテ、ソラ ニ果報ヲ期セン事、大ニ不定ノハカラヒ也、カヤウノ 事ヲ云モノハ、心ノイタリテ物クサク、性ノ極メテ不 覚ナルカイタス所也、先アルヘカラム振舞ヲ用意シ テ、其上果報ヲ待ハ流ニサヲササムコトシ、漸見湿 土泥決定知近水トコソ法華経ニモトカレタレハ 営ムカタニ付テ、様々ノ願望ヲミツヘキコトト見エタリ、 乾燥ノ土ノ中ヨリ只一度ニ水ヲ得事ハ、カタカルヘシ、 自又無能不忠ノモノモ、ヨキタメシモアレトモ、其ハ 前生ノ宿善厚ニコタヘテ有様コソハ有ラメ、ウ/k106
チマカセタルナラヒト、タノマム事、ウノマネスル烏ニ似タ リ、株ヲ守ル愚夫ニコトナラス、ヨコノ海ノ仙人ノ下 界ノ人ニトモナヒ、水ノ江ノ浦島子カ蓬莱ヘ行タリ ケン昔語ヲハ、ヨノツネノ事ト思フヘキニヤ、少ハ無ニ 処スルイハレナリ、顔回ハ賢者ナレトモ、不孝ニシテハヤ ク死シ、盗跖賊徒ナレトモ、寿ヲモテヲヘケルハ、コト ハリノ外ナレハ、タレハタレカナヘテ例ト信スヘキヤ、楽天 書給ヘル事アリ、 去者逍遥来者死、乃知禍福不天為 是ハ秦ノ李斯等カ心ヲキラヒ、漢ノ園公等カフ ルマヒヲホメタル古調四韻ノ内ノ落句也、カカルニ付/k107
テモ、三界唯一心也、心ノ外ニ別ノ法ナカリケリト覚 ユ、楽天又文殊ノ化身ナレハ、イカカ信セサラム、唯シ イマタ来ラサラム報ヲ、イライラシク願ヒ求テ聞 イテ事ナトスヘカラス、万ニ付テ能ク思ハカリヲ メクラスヘキ也、/k108