text:jikkinsho:s_jikkinsho06-18
十訓抄 第六 忠直を存ずべき事
6の18 忠孝一つのことなれば孝子の振舞ひこのうちに侍るべし・・・
校訂本文
忠孝一つのことなれば、孝子の振舞ひ、このうちに侍るべし。
重華はかたくななる父に仕へ、伯瑜は怒れる母にしたがふ。董永が身を売りし志、郭巨が子を埋づむ企て、とりどりなり。このたぐひ、唐土(もろこし)のことなれば、『孝子伝』・『蒙求』などに記せるによて、みな人、口付きたる物語なれば、くはしく書き述ぶるに及ばず。
わが朝のこと、常に人の口にあるほか、一両条申すべし。
昔、元正天皇の御時、美濃国に貧しく賤しき男ありけるが、老いたる父を持ちたり。この男、山の木草を取りて、その値を得て、父を養ひけり。この父、朝夕あながちに酒を愛し欲しがる。これによりて、男、なりひさごといふ物を腰に付けて、酒を沽(う)る家に行きて、常にこれを乞ひて、父を養ふ。
ある時、山に入りて、薪を取らんとするに、苔深き石にすべりて、うつぶしにまろびたりけるに、酒の香しければ、思はずにあやしくて、そのあたりを見るに、石の中より水流れ出づることあり。その色、酒に似たり。汲みて舐むるに、めでたき酒なり。うれしく思えて、そののち、日々にこれを汲みて、あくまで父を養ふ。
時に御門、このことを聞こしめして、霊亀三年九月に、その所へ行幸ありて、御覧じけり。「これすなはち、至孝ゆゑに、天神地祇1)あはれみて、その徳をあらはす」と感ざさせ給ひて、のちに美濃守になされにけり。
その酒の出所をば、「養老の滝」とぞ申す。かつは、これによりて、同十一月に年号を「養老」と改められける。
翻刻
忠孝一ノ事ナレハ、孝子ノ振舞此内ニ侍ルヘシ、 重華ハ、カタクナナル父ニ仕ヘ、伯瑜ハイカレル母ニシタ カウ、董永カ身ヲ売シ志郭巨カ子ヲ埋ム企テ 取々也、此タクヒモロコシノ事ナレハ、孝子伝蒙求ナ トニシルセルニヨテ、皆人口付タル物語ナレハ委書ノフル ニ及ハス、我朝ノ事常ニ人ノ口ニアル外一両条申ヘシ、 廿二昔元正天皇ノ御時美濃国ニ貧ク賤キ男有ケル/k64
カ、老タル父ヲ持タリ、此男山ノ木草ヲ取テ、其値ヲ 得テ父ヲ養ケリ、此父朝夕アナカチニ酒ヲアイ シホシカル、依之男ナリヒサコト云物ヲ腰ニ付テ、酒 ヲ沽ル家ニ行テ、常ニ是ヲ乞テ、父ヲ養フ、有時 山ニ入テ薪ヲ取ントスルニ、苔深キ石ニスヘリテ、ウ ツフシニマロヒタリケルニ、酒ノ香シケレハ、思ハスニアヤ シクテ、其アタリヲ見ニ、石中ヨリ水流出ル事アリ、 其色サケニ似タリ、汲テナムルニ目出キ酒也、ウレシ ク覚ヘテ、其後日々ニ此ヲクミテ、アクマテ父ヲ養 フ、時ニ御門此事ヲ聞食テ、霊亀三年九月ニ其 所ヘ行幸アリテ御覧シケリ、是則至孝故/k65
ニ、天神祇哀テ其徳ヲアラハスト感セサセ給テ、後ニ 美乃守ニナサレニケリ、其酒ノ出所ヲハ養老ノ滝 トソ申ス、且ハ依之同十一月ニ年号ヲ養老ト改 メラレケル、/k66
1)
「天神地祇」は、底本「天神祇」。諸本により訂正。
text/jikkinsho/s_jikkinsho06-18.txt · 最終更新: 2020/04/16 23:48 by Satoshi Nakagawa