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十訓抄 第六 忠直を存ずべき事
6の11 中納言顕基卿は後一条院ときめかし給ひて・・・
校訂本文
中納言顕基卿1)は後一条院ときめかし給ひて、若くより、官・位に付きて、うらみなかりけり。御門におくれ奉りにければ、「忠臣は二君に仕へず」とて、天台楞厳院にのぼりて頭(かしら)おろしてけり、御門、隠れ給へりける夜、火を灯さざりければ、「いかに」と尋ぬるに、「主殿司(とのもつかさ)、新王の御事をつとむ」とて、参らざるよし申しけるに、出家の心は強くなりにけり。
この人、若く2)より道心ありて、常のことぐさには、
古墓何世人
不知姓与名
化為路傍土
年々春草生
とぞ、口づけ給ひける。
のちには、上東門院3)より呼ばせ給ひけるには、かく申しける、
世を捨てて家を出でにし身みなれどもなほ恋ひしきは昔なりけり
のちには、上醍醐に住みて、往生を遂げにけり。
同院、御位の時、この人、いまだ殿上人なりけるに、上東門院、国母にて、入内ありて、御覧じて、「故院、隠れさせ給ひて、いくほどの年もへだてぬに、百敷(ももしき)の内こそ、むげにおとろへ変りにけれ」と仰せられけるに、御門の御心の中、はづかしく思しめしたるに、顕基、殿上人の方にて、朗詠の一二句口ずさみたりけるを、院、聞こしめして、「これこそ、昔に変らぬ情けの残りたりけれ」と仰せられけるにぞ、御門も御力つく御心地して、うれしく思はせ給ひける。
この人、遁世ののち、大原に住みけるころ、宇治殿4)、かの庵室にむかひ訪(とぶら)はせ給ひて、終夜(よもすがら)御物語ありけり。宇治殿は「後世には必ず5)導かせ給へ」と示し給ひて、暁、帰り給ひなんとし給ひける時、「俊実6)は不覚の者に候ふ」と申されけり。
その時は何とも思はせ給はで、帰りてのち、案じ給ふに、「させるつひでもなきに、子息のこと、よも悪しざまには言はじ。見放つまじきよしを存じけるなりけり」と思ひ取りて、世を遁るといへども、恩愛、なほ捨てがたきことなれば、思の余りて言ひ出でられたりけり。あはれに思して、ことにふれて芳心いたされけり。
美濃大納言7)とはこの人のことなり。
翻刻
十四中納言顕基卿は後一条院ときめかし給て、わかく より、官位に付て恨なかりけり、御門にをくれ奉に けれは、忠臣は二君につかへすとて、天台楞厳院に上 てかしらをろしてけり、御門隠給へりける夜、火を ともささりけれは、何にと尋るにとのもつかさ新王 の御事をつとむとて、不参よし申けるに、出家の心 はつよくなりにけり、此人わかりより道心ありて 常のことくさには、 古墓何世人 不知姓与名 化為路傍土 年々春草生 とそ口つけ給ける、後には上東門院よりよはせ給け/k46
るには、かく申ける、 よをすてて家をいてにしみなれとも、猶こひしきはむ かしなりけり、 後には上醍醐に住て、往生を遂にけり、同院御位 の時、此人いまた殿上人なりけるに、上東門院国母にて 入内有て御覧して故院隠させ給て幾程の年 もへたてぬに、ももしきの内こそ、無下におとろへかは りにけれと仰られけるに、帝の御心の中はつかしく 思食たるに、顕基殿上人の方にて朗詠の一二句くち すさみたりけるを、院聞食て、これこそ昔にかはらぬ なさけの残りたりけれと仰られけるにそ、帝も御/k47
力つく御心地して、うれしく思はせ給ける、此人遁世の後 大原に住けるころ、宇治殿彼庵室にむかひ訪はせ給て、 終夜御物語ありけり、宇治殿は後世には国導せ 給へと示給て、暁帰給なんとし給ける時、俊実は不 覚の者に候と申されけり、其時はなにとも思はせ給は てかへりて後案給に、させる次もなきに、子息の事 よもあしさまにはいはしみはなつましき由を存ける なりけりと思取て、世を遁といへとも、恩愛なを すてかたき事なれは、思の余て云出られたりけり、哀 におほして、事にふれて芳心いたされけり、美乃大 納言とは此の人の事也/k48