古今著聞集 変化第二十七
604 建保のころ大原の唯蓮房五種行をはじめ行なはれけるに天狗たびたび妨げをなしけり・・・
校訂本文
建保のころ、大原の唯蓮房、五種行をはじめ行なはれけるに、天狗たびたび妨げをなしけり。唯蓮房は書写法師にて侍けるに、ある昼つかた、明障子(あかりしやうじ)の外にて、聞きも知らぬ声にて、「唯蓮房」と呼ぶ人1)あり。「誰(た)そ」とばかり答へて、出では会はず。さるほどに、後戸の方より、この人入り来るを見れば、いと恐しげなる山伏なり。「天狗にこそ」と思ふより、恐しきことかぎりなし。ただ十羅刹を念じ奉りて、また目も合はせず書写するに、この山伏、「ああ貴げにおはするものかな」と言ひて、その日は帰りぬ。
その後、また見も知らぬ中間法師(ちゆうげんほふし)一人来たりて言ふやう、「ただ今、僧正の御房、御入堂候ふ。見参せんと候ふなり」と言へば、その時は天狗とも思ひも寄らで、急ぎ出でて見るに、げにも僧正、あまたの僧を具しておはしたり。「ここへ」と呼ばれければ、その命にしたがひて寄り行くに、「ここもと」と思ふに、次第に遠くなりけり。「こはいかに」と怪しく思ふほどに、この僧ども立ち囲めて、その中に一人、葛縄(かづらなは)を持ちて、唯蓮房にうちかけけり。「はやく縛らんとするにこそ」と思ひて、剣を抜きてこれをあばくに、葛みな切られてのきににけり。かくすること、たびたびになりけれども、知らずして法師どもも失せぬ。それより唯蓮房は帰りて、なほこの行をいたす。
また次の日、山伏、明障子を開けて来たれり。さきのごとく他念なく十羅刹を念じ奉りてゐたるに、天狗、手をさしやりて、唯蓮房の腕(かひな)を持ちて、「いざ給へ」と言ひて、引き出ださむとしけり。唯蓮房、すまひて出でず。かくからかふほどに、硯に小刀のありけるを取りて持たれけるほどに、その小刀を天狗の腕にいささか突き立ててけり。その時天狗、「この儀(ぎ)ならんにとりては」と言ひて、荒く引き出だしてゐぬ。空をかけるかと思しくて、行く心も心ならず。ただ夢のごとし。四方(よも)の木ずゑなどの下に見下されけるにぞ、空を行くとは知られける。
さて、ある山の中に置きつ。いささか竹門ある家の古びたるに置きて、明障子のありけるを引き開けて、「これへ」と請じ入れければ、「これほどの儀になりては、否むともかなはじ」と思ひて、言ふにしたがひて入りぬ。内の方を聞けば、このまうけ営むとおぼしくて、人あまたがおとなひして、ひしめき営む。「客人(まらうど)入らせ給ひたり」と言ふほどに、法師一人、高坏(たかつき)に肴物(さかなもの)すゑて持て来たりてすゑたり。また銚子に酒入れて来たれり。「これ参り候へ」と勧むるを見れば、この肴に盛れるものども、すべて見も知らぬ物なり。ともかくも物も言はず、ただ三宝に身をまかせて、かいつくなひてゐたれば、しきりにこれを勧む。断酒のよしを言ひて飲まねば、この酌取りの法師、いかにも御酒参らぬよしを、奥の方へ言ひければ、「さらば、これを参らせよ」とて、すなはちゆゆしき美膳を取り出だしたり。これもまた、つやつや見も知らぬ物どもを盛りそなへたり。「御酒をこそ参り候はざらめ、これをば参り候ふべきなり」と勧むれば、持斎(ぢさい)のよしを言ひて食はず。
しひてなほ勧むれども、いまだ食はずして、いよいよ深く祈念をいたすところに、竹の戸の方に人の音するを見やりたれば、白装束(しらさうぞく)なる童子二人、楚(ずはえ)を持ちておはします。これをこの天狗法師うち見るより、やがて失せにけり。さしも奥の方にひしめきのの しりつるおとなひども、すべて息音もせずなりぬ2)。木の葉を風のさそひていぬるがごとし。その時、唯蓮房、心神やすくなりて、恐るることなし。
あまりの不思議さに、家の奥ざまに行きて見めぐるに、すべて人なし。「十羅刹の助け給ふにこそ」と、貴くかたじけなきことかぎりなし。「さるにても、そこらの者ども、いづちへ失せぬらん」と思ふに、あるいは縁の束柱(つかばしら)の隠れ、あるいは長押(なげし)・垂木(たるき)の間なむどに、わづかに小鼠(こねずみ)ばかりの身になりて、小法師ばら身をそばめ、世を恐れて隠れまどひをりけり。唯蓮房を見て恐れたること、あさましげなり。
その童子、聖を呼びて、「恐れ思ふことなかれ」とて、一人は前(さき)に立ち、一人は後ろに立ちておはします。始め来たりつる時は、はるばると野山を越え、空をかけり、やや久しかりつるに、この童子の御後ろにしたがひて、ただ須臾(しゆゆ)の間に本房に行き着きにけりとなむ。
これさらにうきたることにあらず。末代といひながら、信力にこたへて法験のむなしからざることかくのごとし。
翻刻
建保の比大原の唯蓮房五種行をはしめをこな はれけるに天狗たひたひさまたけをなしけり唯蓮房 は書写法師にて侍けるにあるひるつかた明障子の 外にてききもしらぬ声にて唯蓮房とよふへありたそ とはかりこたへていてはあはすさる程に後戸のかたより この人いりくるをみれはいとおそろしけなる山伏なり 天狗にこそと思ふよりおそろしき事かきりなしたた 十羅刹を念したてまつりて又目もあはせす書写/s476l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/476
するにこの山ふしああたうとけにおはする物かなといひ て其日は帰りぬ其後又見もしらぬ中間法師一人 きたりていふやうたたいま僧正御房御入堂候見参 せんと候なりといへはその時は天狗とも思もよらていそ きいててみるにけにも僧正あまたの僧をくしておはし たりここへとよはれけれはその命にしたかひてより ゆくにここもととおもふに次第にとをくなりけりこは いかにとあやしくおもふ程に此僧とも立かこめてその中 に一人かつら縄をもちて唯蓮房にうちかけけりは やくしはらんとするにこそと思て釼をぬきてこ れをあはくに葛みなきられてのきににけりかくする/s477r
ことたひたひに成けれともしらすして法師ともも うせぬそれより唯蓮房はかへりて猶この行をい たす又次日山ふし明障子をあけてきたれりさき のことく他念なく十羅刹を念したてまつりて 居たるに天狗手をさしやりて唯蓮房のかひ なをもちていさ給へといひて引いたさむとしけり 唯蓮房すまひていてすかくからかふ程に硯に小 刀のありけるをとりてもたれける程にその小刀を 天狗のかいなにいささかつきたててけり其時天狗 このきならんにとりてはといひてあらくひき出して いぬ空をかけるかとおほしくて行心もこころならす/s477l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/477
たた夢のことしよもの木すゑなとのしたに見くた されけるにそ空を行とはしられけるさてある山 の中にをきついささか竹門ある家のふるひたる にをきて明障子のありけるをひきあけてこれへ と請し入けれはこれ程の義になりてはいなむと もかなはしと思ていふにしたかひていりぬ内のか たをきけはこのまうけいとなむとおほしくて 人あまたかをとなひしてひしめきいとなむまら 人いらせ給たりといふ程に法師一人高坏に肴物 すへてもてきたりてすへたり又銚子に酒入てき たれりこれまいり候へとすすむるをみれは此さかなに/s478r
もれるものともすへて見もしらぬ物なりとも かくも物もいはすたた三宝に身をまかせてかひ つくなひて居たれはしきりにこれをすすむ断酒 のよしをいひてのまねは此酌とりの法師いかにも 御酒まいらぬよしを奥のかたへいひけれはさらはこ れをまいらせよとてすなはちゆゆしき美膳を とりいたしたりこれも又つやつや見もしらぬ物とも をもりそなへたり御酒をこそまいり候はさらめこれ をはまいり候へきなりとすすむれは持斎のよしをいひ てくはすしゐて猶すすむれともいまたくはすしていよいよ 深く祈念をいたす処に竹の戸のかたに人のをと/s478l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/478
するを見やりたれはしら装束なる童子二人すはへ をもちておはしますこれをこの天狗法しうち見る よりやかてうせにけりさしもおくのかたにひしめきのの しりつるをとなひともすへて息をともをすなりぬ 木の葉を風のさそひていぬるかことし其時唯蓮房 心神やすくなりて恐るる事なしあまりのふしき さに家のおくさまに行て見めくるにすへて人なし 十羅刹のたすけ給にこそとたうとくかたしけなき こと限なしさるにてもそこらの物ともいつちへうせぬ らんと思に或は縁のつかはしらのかくれ或はなけ したるきのあひたなむとにわつかにこねすみはかり/s479r
の身になりて小法師原身をそはめ世を恐てかく れまとひをりけり唯蓮房をみておそれたる事 あさましけ也其童子聖をよひて恐思ふことな かれとて一人はさきにたち一人はうしろにたちておは します始きたりつる時ははるはると野山を越空 をかけりややひさしかりつるにこの童子の御うし ろにしたかひて只須臾のあひたに本房に行 つきにけりとなむこれさらにうきたる事にあら す末代といひなから信力にこたへて法験のむなし からさる事かくのことし/s479l