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巻6第6話(48) 霊の事
校訂本文
信州のある所の地頭、所領の中に有徳(うとく)の山寺法師ありけるを、事(こと)を左右に寄せて、資財ことごとく掠(かす)め取りてけり。鎌倉に上(のぼ)りて上奏しけれども、達せずして、病死しおはんぬ。かの妻に霊託(りやうたく)して、病み狂ひ口ばしりて、「われ過(とが)なきを、かくのごとく惑はし果てておはする、口惜しければ、女房も取り死(ころ)すべし。次(つぎ)に殿も子息たちも、一人も残りなく取り死(ころ)すべし」と云ひける。
事の体(てい)恐しくすさまじく覚えて、人の云ふことを聞きて、まことと思ひて、「無沙汰のことありけり。資財物、ことごとく返して、神にも斎(いは)ひ、菩提をも訪(と)ふべし。心行(ゆ)ひて助け給へ」と、たびたびたり伏し云ひければ、ちとゆるくなりけり。
「げにや」と云ひけるに、力つきて、「おびたたしく誓状(せいじやう)して、神に斎ふべき」よし、云ひける時、心ゆきて、「さらば、後世もとぶらひ給へ。また、わが身も執心よしなし。神も斎ひ給はむこともしかるべし。鎌倉にて、浜の大鳥居に打ちたりし針(くぎ)、取り出だして見せ奉らむ」とて、たらひ取り寄せて、三・四寸ばかりの針、吐き出だして、「これ打ちたりし石も見せ奉らむ」とて、大なる石一つ吐き出だしたりけり。はづかしけれども、わが姿も見せ奉らむ」とて、物を吐き出だしたりける。蛙(かへる・かはづ)なりけり。験者(げんじや)はこれを取りて、竹の筒に入れて納めて、祠(ほくら)など作りて、資財ことごとく返して、斎ひて侍るなる。ちかごろのことなり。
尾州にあひ知りたる者の妻(つま)、物狂ひなりければ、山寺僧も陀羅尼(だらに)を誦して加持するに、物を吐き出だしたりける。うはなりが呪咀したる人形(ひとがた)、また熱田の宮の鳥居に打ちたりける針(くぎ)、吐き出だして、さまざまのこと云ひける。たしかなる同法(どうぼふ)の云ひたることなり。
ある人の先祖の霊、盲目なりけるが、ことに霊託(りやうたく)して、目を一向(いつかう)用ゐ侍らざりし。種々(しゆじゆ)に加持し、陀羅尼誦(よ)みて開きたること侍りし。近ごろのことなり。
坂東のある寺に、二人沙弥、仲悪しくして、ややもすれは闘諍(たうじやう・たたかひあらそひ)がましかりけるが、霊の僧に託して云ひけるに、「二人、先祖に筑紫かせ鳥といふ鳥にてありしが、僧の袈裟の切(きれ)を、巣くわうため争ひて、申しあがりけり。その後、武蔵野の鹿に生じて、仲悪しかりける。袈裟の因縁、今、僧と成れども、昔の宿因にて仲悪しきなり」と云しける。真言師、不動の印明(いんみやう)にて加持しければ、彼の僧、手の腕切りて血出でたりけり。たしかのことなり。
陀羅尼の功能(くのう)にて霊病の癒えたること、愚老が覚え侍り。当代、彼の人存せり。陀羅尼の功能は末代ことに勝(すぐ)れてめでたかるべきよし、真言経の中これ多し。大般若1)の中に理趣分は、ことに理趣経と同体異訳(どうたいいやく)なり。陀羅尼の功能、めでたく見えたり。
惣持猶妙薬。(惣持はなほ妙薬のごとし。)
能療治惑病。(よく惑病を療治す。)
亦如天甘露。(また天甘露のごとし。)
服者常安楽。(服する者、常に安楽ならん。)
これは五百八十二の巻の文なり。たしかのことなるゆゑに、巻のこと、これを記す。
山臥(やまぶし)もこの文多く誦し侍るにや。ある僧、遁世門に入りて侍しが、いくほどなくして乱行放逸(らんぎやうはういつ)にして、病もつてのほかに大事に労(いたは)り侍りしに、病の床に沈みて日久しく、苦痛申すばかりなく承りしかば、「人はいぶせくや」と思ひて、伴(はん・とも)も具せずして、一人病者の臥したるそばにて、千手陀羅尼、多反(たへん)誦して侍りしかば、われも誦し、やがて起きて、「かかる薬の候ひける」とて、落涙(らくるい)して語り侍りし。腰の辺(へん)より水をかくるやうに凉しく、頭(かうべ)にも水をかくる心地して、ほとをりさめて、いくほどもなく、癒えて侍りし。当時もある人なり。
翻刻
霊之事 信州ノ或所ノ地頭所領ノ中ニ有徳ノ山寺法師有ケルヲ事ヲ左 右ニヨセテ資財悉ク掠メ取リテケリ鎌倉ニ上テ上奏シケレトモ不 達シテ病死了ヌカノ妻ニ霊託シテ病狂ヒ口ハシリテ我レ過ナキヲ如此ノ マトハシハテテヲハスル口惜ケレハ女房モ取死スヘシ次ニ殿モ子息タ チモ一人モ残ナク取リ死スベシト云ケル事ノ体ヲソロシクスサマシク オボヘテ人ノ云事ヲ聞テマコトト思テ無沙汰ノ事有ケリ資/3-40l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13386679/1/40
財物コトコトク返シテ神ニモイハヒ菩提ヲモ訪ヘシ心行テ助ケ給ヘト 度々タリフシ云ヒケレハチトユルクナリケリケニヤト云ケルニ力ツキ テヲビタタシク誓状シテ神ニイハフヘキヨシ云ケル時心ユキテサラハ 後世モトフラヒ給ヘ又我身モ執心ヨシナシ神モイハヒ給ハム事モ 可然ル鎌倉ニテ浜ノ大鳥居ニ打タリシ針取リ出シテ見セタテマツ ラムトテタラヒ取リ寄テ三四寸ハカリノ針ハキイタシテコレ打タリシ 石モミセタテマツラムトテ大ナル石一ハキイダシタリケリハツカシ ケレトモ我スカタモミセタテマツラムトテ物ヲハキイタシタリ ケル蛙ナリケリ験者ハコレヲトリテ竹ノ筒ニ入テオサメテホク ラナト作テ資財悉ク返テイハヒテ侍ルナル近比ノ事也 ○尾州ニ相知リタル者ノノ妻物狂ナリケレハ山寺僧モ陀羅尼ヲ 誦シテ加持スルニ物ヲハキイタシタリケルウハナリカ呪咀シタル/3-41r
人形又熱田ノ宮ノ鳥居ニウチタリケル針ハキイタシテ様々ノ 事云ケルタシカナル同法ノ云ヒタル事也 ○或ル人ノ先祖ノ 霊盲目ナリケルカ殊ニ霊託シテ目ヲ一向不用侍ラシ種々ニ加持シ 陀羅尼誦テ開キタル事侍シ近比ノ事也 ○坂東ノ或ル寺ニ 二人沙弥中アシクシテ動モスレハ闘諍カマシカリケルカ霊ノ僧ニ 託シテ云ケルニ二人先祖ニ筑紫カセ鳥ト云鳥ニテアリシカ僧ノ袈 裟ノ切ヲ巣クワウタメアラソヒテ申アカリケリ其ノ後武蔵野ノ 鹿ニ生シテ中アシカリケル袈裟ノ因縁今僧ト成レトモ昔ノ宿因 ニテ中アシキ也ト云ケル真言師不動ノ印明ニテ加持シケレハ 彼ノ僧手ノ腕切テ血出タリケリタシカノ事也 ○陀羅尼ノ功能ニテ霊病ノイエタル事愚老カ覚ヘ侍ヘリ当 代彼ノ人存セリ陀羅尼ノ功能ハ末代コトニ勝テ目出タカルヘキヨシ/3-41l
https://dl.ndl.go.jp/pid/13386679/1/41
真言経ノ中多之大般若ノ中ニ理趣分ハコトニ理趣経ト同体 異訳也陀羅尼ノ功能目出ク見ヘタリ 惣持ハ猶妙薬ノ 能ク療治ス惑病ヲ 亦タ如シ天甘露ノ 服スル者常ニ安楽ナラン コレハ五百八二ノ巻ノ文也タシカノ事ナル故ニ巻ノ事記ス之ヲ 山臥モ此ノ文多ク誦シ侍ルニヤ或ル僧遁世門ニ入テ侍シカ無ク幾程 シテ乱行放逸ニシテ病以ノ外ニ大事ニ労リ侍シニ病ノ床ニ沈テ日久ク 苦痛申スハカリナク承シカハ人ハイフセクヤト思テ伴モグセズシテ一人 病者ノ臥タル旁ニテ千手陀羅尼多反誦シテ侍シカハ我モ誦シヤカ テヲキテカカル薬ノ候ケルトテ落涙シテカタリ侍シ腰ノ辺ヨリ水ヲ カクルヤウニススシク頭ニモ水ヲカクル心チシテホトヲリサメテイクホトモ ナク愈テ侍シ当時モアル人也 雑談集巻ノ第六/3-42r
