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text:yomeiuji:uji138

宇治拾遺物語

第138話(巻12・第2話)提婆菩薩、龍樹菩薩のもとへ参る事

提婆菩薩参竜樹菩薩許事

提婆菩薩、龍樹菩薩のもとへ参る事

校訂本文

昔、西天竺に龍樹菩薩と申す上人まします。智恵甚深なり。また中天竺に提婆菩薩と申す上人、龍樹の智恵深きよしを聞き給ひて、西天竺に行き向ひて、門外に立ちて、案内を申さんとし給ふところに、御弟子、外より来給ひて、「いかなる人にてましますぞ」と問ふ。提婆菩薩、答へ給ふやう、「大師の智恵、深くましますよし承りて、冷難をしのぎて、中天竺よりはるばる参りたり。このよし申すべき」よしのたまふ。

御弟子、龍樹に申しければ、小箱に水を入れて出ださる。提婆、心得給ひて、衣の襟より針を一つ取り出だして、この水に入れて返し奉る。これを見て、龍樹、おほきに驚きて、「早く入れ奉れ」とて、房中を掃き清めて入れ奉り給ふ。

御弟子、「あやし」と思ふやう、「水を与へ給ふことは、遠国よりはるばると来給へば、疲れ給ふらん、喉潤さんためと心得たれば、この人、針を入れて返し給ふに、大師、驚き給ひて敬ひ給ふこと、心得ざることかな」と思ひて、後に大師に問ひ申しければ、答へ給ふやう、「水を与へつるは、『わが智恵は、小箱の内の水のごとし。しかるに、なんぢ、万里をしのぎて来たる。智恵を浮かべよ』とて、水を与へつるなり。上人、空に御心を智りて、針を水に入れて返すことは、『われ、針ばかりの智恵をもつて、なんぢが大海の底を極めん』となり。なんぢら、年ごろ随逐(ずいちく)すれども、この心を知らずしてこれを問ふ。上人は始めて来たれども、わが心を知る。これ、智恵の有ると無きとなり」と云々。

すなはち、瓶水(びやうすい)を移すごとく、法文を習ひ伝へ給ひて、中天竺に帰り給ひけりとなん。

翻刻

昔西天竺に龍樹菩薩と申上人まします智恵甚深也又中天竺
に提婆菩薩と申上人龍樹の智恵深きよしを聞給て西天竺
に行向て門外に立て案内を申さんとし給処に御弟子外より
来給ていかなる人にてましますそととふ提婆菩薩答給やう大師の
智恵ふかくましますよしうけ給て冷難をしのきて中天竺より
はるはるまいりたりこのよし申へきよしの給御弟子龍樹に申けれは
小箱に水を入て出さる提婆心え給て衣の襟より針を一取
いたして此水に入て返し奉るこれをみて竜樹大に驚てはやく
いれ奉れとて房中を掃清めて入奉給御弟子あやしと思やう/下51ウy356
水をあたへ給事は遠国よりはるはると来給へは疲給らん喉潤
さんためと心えたれは此人針を入て返し給ふに大師驚給てうや
まひ給事心えさる事かなと思て後に大師に問申けれは答給
やう水をあたへつるは我智恵は小箱の内の水のことししかるに
汝万里をしのきて来る智恵をうかへよとて水をあたへつる也上
人空に御心を智て針を水に入て返す事は我針斗の智恵を
以て汝か大海の底を極んと也汝等年来随逐すれとも此心を
しらすしてこれをとふ上人は始て来れとも我心をしるこれ智恵
のあると無と也と云々則瓶水を写ことく法文をならひ伝給て中
天竺に帰給けりとなん/下52オy357
text/yomeiuji/uji138.txt · 最終更新: 2019/08/12 13:25 by Satoshi Nakagawa