宇治拾遺物語
第78話の1(巻5・第9話)御室戸の僧正の事
御室戸僧正事
御室戸の僧正の事1)
校訂本文
これも今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正、三井2)の門流に、やんごとなき人おはしけり。御室戸僧正は隆家帥3)の第四の子なり。一乗寺僧正は、経輔大納言4)の第五の子なり。御室戸をば隆明といふ。一乗寺をば増誉といふ。この二人、おのおの貴くて、生き仏なり。
御室戸は太りて、修行するに及ばず。ひとへに本尊の御前を離れずして、夜昼行ふ鈴の音、絶ゆる時なかりけり。
おのづから、人の行き向ひたれば、門をば常にさしたる。門を叩く時、たまたま人の出で来て、「誰(たれ)ぞ」と問ふ。「しかじかの人の参らせ給ひたり」、もしは「院の御使ひに候(さぶら)ふ」など言へば、「申し候(さぶら)はむ」とて、奥へ入りて、無期(むご)にあるほど、鈴の音しきりなり。
さて、とばかりありて、門の関木を外して、扉片つかたを、人一人入るほど開けたり。見入るれば、庭には草しげくして、道踏みあけたる跡もなし。露を分けて、入りて上(のぼ)りたれば、広庇一間あり。妻戸に明り障子立てたる、すすけとほりたる事、いつの世に張りたりとも見えず。
しばしばかりありて、墨染着たる僧、足音もせで出できて、「しばし、それにおはしませ。行ひのほどに候ふ」と言へば、待ち居たるほどに、とばかりありて、内より、「それへ入らせ給へ」とあれば、すすけたる障子を引き開けたるに、香の煙、くゆり出でたり。なえとほりたる衣に、袈裟なども所々破れたる、ものも言はで居られたれば、この人も、「いかに」と思ひて、向ひ居たるほどに、こまぬきて、少しうつぶしたるやうにて居られたり。
しばしあるほどに、「行ひのほど、よくなり候ひぬ。さらば、とく帰らせ給へ」とあれば、言ふべきことも言はで、出でぬれば、また、門やがてさしつ。
これはひとへに、居行ひの人なり。
翻刻
これも今はむかし一乗寺僧正御室戸僧正三井の門流 にやんことなき人おはしけり御室戸僧正は隆家帥の第四の 子也一乗寺僧正は経輔大納言の第五の子也御室戸をは隆明 といふ一乗寺をは増誉といふ此二人おのおのたうとくていき 仏なり御室戸はふとりて修行するに及はすひとへに本尊の御/81ウy166
まへをはなれすして夜昼おこなふ鈴の音絶時なかり けりをのつから人の行むかひたれは門をは常にさしたる 門をたたく時たまたま人の出きてたれそととふしかしかの人のま いらせ給たりもしは院の御つかひにさふらふなといへは申さふら はむとておくへ入てむこにあるほと鈴のをとしきり也さてと はかりありて門の関木をはつして扉かたつかたを人ひとり入 程あけたりみいるれは庭には草しけくしてみちふみあけたる跡 もなし露を分て入てのほりたれは広庇一間有妻戸にあか り障子たてたるすすけとほりたる事いつの世にはりたり ともみえすしはし斗ありて墨染きたる僧足をともせて 出きてしはしそれにおはしませおこなひの程に候といへは待居た る程にとはかりありて内よりそれへいらせ給へとあれはすすけ たる障子を引あけたるに香の煙くゆり出たりなへとほりたる衣に/82オy167
袈裟なとも所々やふれたる物もいはてゐられたれは此人もい かにと思てむかひゐたるほとにこまぬきてすこしうつふしたるやう にてゐられたりしはしある程におこなひの程よくなり候ぬさらは とく帰らせ給へとあれはいふへき事もいはていてぬれは 又門やかてさしつこれはひとへに居おこなひの人なり/82ウy168