目次
打聞集
第26話 公野聖の事
校訂本文
昔、公野聖1)、申すべきことによりて、一条の大殿2)に参りて、蔵人所に居るほどに、余慶僧正、参り合ひ語る間、僧正いはく、「その臂、いかに切り給ふぞ」。聖いはく、「母、もの嫉(ねた)みして、子なりける折、片枝を取りて、投げられて、地に落ちて切るとぞ、聞き侍りし。幼かりけることなれば、覚えず。かしこく左臂にて、右に候はましかば、いかにし侍らまし」など語る。
僧正いはく、「そこは貴き聖にいますかり。種姓も帝王(みかど)の御子とこそは人申せ。されば、いとかたじけなし。御(み)臂、こころみに加持せむ。いかが思ひ給ふべき」。聖、「嬉しく3)候ふことなり。まことに延べしめ給へらば、いと貴く候ふべし。されば、これ加持せしめ給へ」とて、あぐみ寄る。人々上下、殿の内のあるかぎり集り見るに、半時ばかり加持す。
曲れる臂を延べば、はたと鳴りて延びぬ。こころみにさし延べて、引曲ぐに、右の臂のごとし。聖人、むく連子ばかりの涙を出だして泣き、三度礼す。殿よりはじめ、見る人、みな泣く。
聖、供に二・三人の聖をぞ具して往きける。一人は□聖4)、一人は低皮聖5)、一人は反故(ほぐ)の聖なり6)。その反故の聖、名は起経7)となむいひし。それを、臂延べ給ふ布施に奉りければ、後、僧正のもとにありし。
その公野聖は、東市門に八尺石率都婆を立てつ。盗人かなきはく所なれば、「その罪失はむとて立つるなりけり。また金泥の大般若8)、知識を引きて、えもいはすめでたく書き給ひ、ちすなど9)、めでたくいはむ方なし。
軸になりて、え求めえで、寤夢に僧来たり告ぐ、「なんぢ、前生にこの経を書き奉りしに、書きさして死ぬなり。その軸の水精は奈羅坂10)に埋(うづ)みたり。しかじかの所なり」。夢覚め、『まことにやあるらん』と思ひて、鋤(すき)・鍬(くは)なども持たせて、弟子どもあまた具して、奈羅坂に往ぬ。夢いふやうの所、まことにあり。
掘らするに、三・四尺までなし。五・六尺ばかり掘る。一尺ばかりなる銅の箱を掘り入れつ。銅の細きをもつてからげたり。うち放ちて、開けて見れば、八角なる軸料の水精、つゆ11)傷なきが透き通りたる、一箱入りたり。移して見れば、千二百なり。「まことにこの軸なりけり」と見ゆ。悲しく貴く思えて12)、涙13)を流し、取り帰りて、経軸して、六波羅14)にて供養奉る。くだんの経、清水寺におはしますと云々。
翻刻
昔公野聖依申ヘキ事一条ノ大殿参テ蔵人所居程餘慶僧正参合語間僧 正云其臂何切給ソ聖云母嫉物シテ子ナリケルヲリ片枝ヲ取テ投ラレテ地落テ切トソ聞ハヘ リシヲサナカリケル事ナレハヲホエス賢左臂テ右候マシカハイカニシ侍マシナト語僧正云ソコハ貴聖イマス カリ種姓モ帝王トノ御子コソハ人申セサレハイトカタシケナシミ臂心見ニ加持セム何思給フヘキ 聖ウレク候事也実ニ延シメ給ヘラハイト貴候ヘシサレハ是加持セシメ給トテアクミヨル人々上下 殿ノ内ノ有限集見ニ半時ハカリ加持ス曲臂延ハハタトナリテ延ヌ心見ニ指延テ引曲ニ如右臂聖人 ムク連子許ナミタヲ出泣三度礼殿ヨリ初見人皆泣聖共二三人ノ聖ヲソ具テ往ケル一人ハ □聖一人ハ低皮聖一人ハホクノ聖也其ホクノ聖名ハ起経トナム云シ其ヲ臂延給布施 奉ケレハ後僧正許有シ其公野聖ハ東市門ニ八尺石率都婆ヲ立盗人カナキハク所ナレハ 其罪失ハムトテ立也ケリ又金泥大般若知識ヲ引テエモ云ス目出タク書給チスナト目出タク 云ム方ナシ軸ニ成テエ求不得テ寤夢僧来告汝前生ニ此経ヲ書奉リシニ書サシテ死也 其軸ノ水精ハ奈羅坂ニウツミタリシカシカノ所也夢覚実ニヤ有覧ト思テスキクハナトモ以 セテ弟子共アマタ具テ奈羅坂イヌ夢云様所実有掘スルニ三四尺マテ无五六尺許窟 一尺許ナル銅ノ箱ヲ掘入ツ銅ホソキヲ以テカラケタリ打放テ開見ハ八角ナル軸料水精 □ユキス无カスキ通タル一箱入タリウツシテ見ハ千二百也実ニ此軸也ケリト見ユ悲貴 □ホエテ啼ヲ流取帰テ経軸シテ六波羅ニテ供養奉件経清水寺御云々/d36